植芝盛平翁ゆかりの4市町で友好都市提携
和歌山県田辺(たなべ)市、北海道遠軽(えんがる)町、綾部市、茨城県笠間(かさま)市の4市町は平成20年2月23日、合気道の創始者・植芝盛平(うえしば・もりへい)翁ゆかりのまちとして、友好都市提携を結びました。
明治16(1883)年、現在の田辺市で生まれた盛平翁は、幼いころからさまざまな武道に励み、独自の武術を習得。開拓で現在の遠軽町に住んでいた翁は、大本の出口王仁三郎氏の影響を受けて綾部へ移住。その後、東京、岩間町へと移り、昭和44(1969)年に86歳で亡くなるまで、合気道の普及に努めました。
田辺市
盛平翁は明治16(1883)年12月14日、西牟婁郡西ノ谷村(現在の田辺市元町)で生まれました。明治35(1902)年、19歳のときに幼なじみの糸川はつさんと結婚。軍隊生活を経て故郷・田辺に戻り、田辺在住の世界的博物学者、南方熊楠氏の「神社合祀反対運動」に共鳴し、同氏とともに奮闘しました。
旧田辺市では昭和44(1969)年、盛平翁に名誉市民の称号を贈りました。昭和63(1988)年には「植芝盛平翁顕彰会」を組織。国際合気道大会の招致・開催をはじめ、さまざまな顕彰事業に取り組むなど、盛平翁生誕の地を国内外に発信する活動が続けられています。
遠軽町
明治45(1912)年、盛平翁が率いる紀州開拓団(54戸、80人余り)が旧白滝村(現在の遠軽町)に移住。これが開村のきっかけとなりました。盛平翁は、厳しい自然条件の中での開拓の傍ら武道の修行に励み、日本古来の伝統柔術の流れの中から「合気道」の基礎となる部分を確立したと伝えられています。
盛平翁は8年間の白滝村在村中、村議会議員として地域の発展に尽くしました。同町の白滝柔剣道場の床の間には、日本に現存する二幅のうちの一つである盛平翁直筆の掛け軸が掛けられているほか、白滝郷土館には、開拓当時、盛平翁が好んで携帯していた鉄扇が展示されています。
綾部市
開拓で現在の遠軽町に移住していた盛平翁は大正8(1919)年、父危篤の知らせを受けて帰郷を決心。その帰途で病気回復を祈願してくれるところがあると聞き、綾部に立ち寄りました。そこで大本の出口王仁三郎氏と出会い、説法を受け、自らの生きる道を見出しました。
大正9(1920)年には一家で綾部に移住し「植芝塾」を開設。大正11(1922)年ごろから自らの武術を「合気武道」と呼び、多くの人々に教えました。その後、武術の鍛錬と仕事(農業)は一心同体という「武農一如」のスタイルを築き、気・心・体の一致による「合気道」を創り上げました。
綾部市内では平成14年、合気道創始者植芝盛平翁顕彰会が結成されました。同会は同年11月、JR綾部駅南側広場に盛平翁の功績をたたえる顕彰碑を建立しています。
笠間市
旧岩間町(現在の笠間市)吉岡は、昭和17(1942)年に盛平翁が東京から移り住んだ土地。盛平翁はこの地に修練道場を開設。日本で唯一の合気神社も建立し、合気道の一大拠点としました。その後26年間この地に住み、海外においても合気道の普及に力を尽くしました。
合気道は人々の間に連綿と受け継がれ「合気道スポーツ少年団」や「レディース合気道クラブ」が結成されるなど、活発な活動が続けられています。また、盛平翁が開いた修練道場は茨城道場として受け継がれ、外国人の門弟も数多く受け入れています。旧岩間町は昭和44(1969)年、盛平翁に名誉町民の称号を贈りました。
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