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ホーム > 教育・文化・スポーツ > 資料館 > 綾部市史 > 原始古代編(第6章)

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更新日:2019年6月25日

原始古代編(第6章)

古代の文化と伝承

第一節寺と仏像

日本の古代文化のほとんどが仏教にかかわる文化であるように、古い郷土の文化も仏教文化が中心である。そうして造寺造仏など文化的な営みのにない手は、在地で経済力のある豪族であり、郡司や荘官などの人たちであった。農民たちは、そうした文化的な営みを支える基盤にはなったけれども、その信仰や文化の恵みにあずかることなく、原始時代から育ててきた民間習俗や信仰をもちつづけて、貧しい生活をしていたものと思われる。

何鹿郡における仏教文化の源流は、綾中廃寺(別項参照)にみられるように、白鳳奈良時代、すなわち西歴七〇〇年ころにさかのばることができる。また君尾山光明寺の開創が七世紀とする寺伝も、これを傍証するものといえよう。

古代の寺院とそこにまつられる仏像について、文化財の立場から述べてみよう。

仏南寺里町

平安時代のはじめ、貞観五年(八三六)に仏南寺が真言院となったことは前に述べた。官撰の史書に地方寺院の名が出てくることは珍しく、それだけに仏南寺の重要性がしめされている。仏南寺には次の仏像がまつられている。

市指定文化財

虚空蔵菩薩立像一躯平安時代木造(一木造)像高一六六センチメートル

この像は貞観彫刻といわれる。平安初期の特徴が、広い顔やいかり肩、下半身の重々しい表現などにあらわれているが、貞観盛期の仏像にくらべると、表現がおだやかになっており、一〇世紀の作と考えられている。

市指定文化財

大日如来坐像一躯平安時代木造(寄木造)像高一一七センチメートル

金剛界大日で智挙印を結んでいる。彫法は平安時代の優雅な手法によっているが、やや豊満な感じがとぼしく、平安末期の作と考えられている。

これら文書や仏像からして、九世紀には、壮厳なよそおいをもった大きな伽藍の仏南寺が建っていたことが想像される。

下庄御堂の仏像睦寄町下庄

下庄の山すそに小さな堂があり、下庄六戸の人たちが阿弥陀講をつくってまつっている。堂内には五体の仏像があり、いずれも市指定文化財となっている。

市指定文化財

平安時代

中尊阿弥陀如来坐像一躯木造(一木造)彫眼

平安時代

脇侍観音菩薩立像一躯木造(寄木造)彫眼

平安時代下庄御堂

脇侍勢至菩薩立像一躯木造(寄木造)彫眼

平安時代

二天像二躯木造(寄木造)彫眼

阿弥陀如来坐像は、上品中生印を結んでおり、通肩であるのが特徴である。身体各部の肉づきが豊かであり、台座の蓮台に裳先が彫りだされているのが貴重である。平安初期の作と考えられている。

観音菩薩立像・勢至菩薩立像は、阿弥陀如来坐像の両脇仏であって、平安後期の作と考えられている。三像とも後世の補修と彩色がつたないため、像がいたんでいるのは惜しいが、本像はすぐれた作である。

二天像は、本尊の前におかれて一対の形をなしているが、四天王のうち二天だけが作られたものと思われる。豊かな像容で力感にあふれており、刀法もすぐれている。彩色は大部分はげ落ちているが、後補がなくてよい作である。平安後期の作と考えられる。

金剛寺睦寄町

下庄御堂のすぐ東隣り、金剛寺境内に小さなほこらがあり、上庄二戸の人が弥勒講をつくってまつっている。

弥勒菩薩坐像一躯木造(寄木造)彫眼金剛寺境内

仏像の名称は弥勒になっているが、下品上生印を結んだ阿弥陀如来である。眼やほおの張った強い線は山間の仏像らしく、平安後期の作と考えられる。

宝住寺味方町

市指定文化財

薬師如来坐像一躯平安時代木造(一木造)像高九〇センチメートル彫眼

もと宝住寺の境外仏像であり、薬師前の人たちが薬師講をつくってまつっていたが、近年宝住寺境内に薬師堂を建て、ここに遷した。像は量感にあふれており、藤原時代の特徴をよく備えているが稚拙なところもあり、地方仏師の作と考えられている。もとこの地にあった井上寺の仏像と思われる。平安中期の作である。

熊野神社

願成寺別所町

市指定文化財

熊野十二所権現像藤原時代木造像高四五~五四センチメートル

菩薩形立像四躯

僧形立像二躯熊野神社

蔵王権現像一躯

十一面観音立像一躯願成寺

熊野神社と願成寺とは隣り合っており、熊野十二所権現の本地仏が分置されている。これらはいずれも藤原後期の素朴な小像であるが、そのおっとりとした一木造の姿にはすてがたい魅力がある。

十一面観音立像は、頭上の面がこわれていて明らかでないが、全体としておだやかでよく整っており、山伏の本尊である蔵王権現像は、簡単な彫りのうちに藤原時代の優美な感覚がよく表されていて、ともにすぐれた作である。(注)

これら平安藤原時代の仏像が市内の各地の寺や堂にまつられていることは、平安期に入ってから仏教がこの地方に広まり、造寺・造仏がなされたことをしめしている。一〇世紀の中ごろに、南無阿弥陀仏の名号を唱えて大きい布教活動をしたといわれる空也上人を、開基または中興としている寺院が市内にきわめて多いことも、仏教信仰がこのころからより広まったことをしめしている。

空也上人を開基または中興としている寺院

正暦寺高屋寺施福寺(再興)岩王寺願成寺福性寺西照寺宝満寺興隆寺観音寺(中興)

これらの寺も、はじめは小さな草葺きの堂であったのであろうが、それをまつるのに庶民も参加しはじめたのであろう。

第二節修験道と熊野信仰

修験道

修験道は日本古来の山岳信仰と、平安時代から盛んになった天台・真言の密教とが習合して成立した呪術的な宗教であって、奈良時代に大和葛城山に住んで呪術を行ったという役小角(えんのおずぬ)を開祖としている。平安時代の中ごろには、吉野金峯山や紀州熊野の行場を中心に、全国各地の霊山に行場が開かれた。

吉野の金峯山一帯の山岳地帯は、飛鳥時代から宮廷人の一種のあこがれの地であり、離宮なども設けられたところである。ここが修験道の霊場となり、一〇世紀には修験者の本尊である蔵王菩薩(蔵王権現ともいう)をまつる蔵王堂がつくられている。蔵王菩薩の形相は、目三つの怒った面貌に髪をさか立て、左手を腰につけ、右手は三鈷杵という降魔の仏具をにぎって頭上に高くかざし、右足をあげ、左足は磐石をふむ姿である。この蔵王菩薩の形相に現れる精神が、山伏修行者の体得すべきものとされたのである。

吉野金峯山はこうした霊場として名が広まるにつれて、長寿・延命・富貴・栄達などの現世利益を求めた俗人たちが、行者に導かれて登山するようになってきた。

紀州熊野は、本宮・新宮・那智の三山からなり、うっそうたる森林におおわれた山、水量の豊かな川、高い滝の美しい自然が原始信仰の霊地となっていたものである。この熊野が修験霊場となったために仏教化していき、特に本地仏が次のように定められてから、全く仏教と習合してしまった。

本宮―弥陀新宮―薬師那智―観音

中でも都智山の本地仏が観音となったことにより補陀落信仰が盛んになり、熊野は補陀落観音の主宰する南方の浄土と考えられ、修験者・貴族だけでなく、武士や農民も続々と参詣にでかけた。さらに本宮の本地仏が阿弥陀とされたことにより、弥陀西方浄土の信仰も加わり、浄土の方向にかかわらず、熊野は来世信仰の中心のようになっていった。

宮廷においても、後白河上皇は三四度、後鳥羽上皇は三一度と実にたびたび参詣している。平家の帰依も一方でなく、清盛・重盛もそれぞれ四度参詣し、平氏の武運長久を祈っている。

中世には参詣者の増加にともない、熊野修験行者の中には、御師(おし)、あるいは先達(せんだち)として京都などをまわり、在京の人々に参詣をすすめ、路次の案内、宿舎の世話をするものもあらわれた。

郷土の熊野信仰

別所町の那智山願成寺と熊野神社には、熊野十二所権現がまつられていることは前に述べたところである。熊野権現を京都に勧請したのは、永暦年間(一一六〇~一)といわれ、治承二年(一一七八)には熊野の修験者たちが山陰道にあらわれており、京都の新熊野社の荘園二八か所のうち、丹波国には吾雀荘と志万荘があった。この熊野十二所権現像は、これら荘園の守護神として在地の人々にまつられたものであろう。

平氏の熊野信仰については前に述べたが、綾部にもこれにかかわる伝承がある。それによれば、平重盛は丹後の知行国主となり、天の橋立の景勝を愛して、府中に館をもっていた。また綾部にも所領をもち、並松の景色がきわめて熊野によく似ているというので、ここに熊野三所権現を勧請したという。いまこの地には、那智山正暦寺・熊野神社・熊野新宮社(明治になって熊野神社に合社)があり、地名に、本宮・新宮が残っている。正暦寺の一祠には那智の本地仏、千手観音像がまつられている。この像は藤原様式の繊細な感じのする木像で、鎌倉前期の作といわれ、熊野信仰の盛んな風潮の中で作られたものである。

その外、熊野神社・熊野新宮社・十二社神社・十二所神社・十二所権現などがまつられており、本社が一五社、境内社が七社、合わせて二二社におよんでいる。いずれも鎌倉初期から熊野信仰の盛行する中で、中世の間に勧請しまつられたものであろう。

郷土の修験道の遺跡

修験道は真言密教と深く結びつき、いま綾部市内にある真言寺院の多くが、山地の高いところに創建された由緒をもっている。これは修験道の行場・宿坊的在役割をもっていたものと思われる。特に古い由緒をもつ君尾山光明寺は、役小角(えんのおずぬ)がここで修業し、理源大師が中興したと伝えている。この君尾山を起点として、口上林の東照寺・日円寺、東八田の蜂ケ峯の西照寺・施福寺を経て、於与岐の弥仙山へと一連の雄大な修験道場が展開されていたようである。君尾山の東方、丹波若狭にまたがる頭巾山も青葉権現をまつる霊場であり、丹後の青葉山と相応じている。この外にも各地に行場が設けられており、そこには熊野権現や大日如来の忿怒身の化身とされている不動明王、来世の仏である弥勒菩薩、そのほか虚空蔵菩薩・青面金剛・蔵王権現など、いろいろな仏像がまつられ、いまもそこでは滝に打たれる行などが行われたりしている。

第三節経塚と大般若経

経塚

経塚は経典を埋納した遺跡であるが、経塚造営の動機は末法思想によるものとされている。末法に入る年代については諸説があるが、釈尊の入滅後一五〇〇年(一説では二〇〇〇年)になると末法の世に入る。末法の世は釈迦の教えが全く行われず、混乱にみちて救い難い世であるとされ、わが国では、永承七年(一〇五二)が末法一年という説が行われた。おりから貴族政治の混乱期にあったので、当時の社会に深刻な影響を与えた。末法の世には経典は不用とされ、破壊されてしまうかも知れないので、釈迦入滅後五十六億七千万年に、弥勒菩薩が第二の釈尊として現れ教えを垂れるまで、経典を伝えようとして経塚をつくったものであるといわれている。

経塚の造営はわが国だけの風習で、平安末期の貴族政治の崩壊する過程の中ではじまり、一二世紀に全盛期を迎えるが、やがて追善供養の性格が加えられて、中世近世を通じて造営され、いまもなお一部では行われている。

経塚に納められる経典には、法華経が最も多く、そのほか般若心経・阿弥陀経などの各種があり、これら経典の多くは紙に書写されて経筒に納められる。経筒は銅製のものが多いが、陶製品やその他の容器も用いられ、さらに陶製の外容器に収められていることが多い。この経筒に鏡や仏像・仏具・利器・銭貨などをそえて、地下へ埋納するのである。

経塚は特殊な場合を除いて地表に標識をもたないし、封土も小規模な場合が多いので、地表から観察してわかる場合がまれである。そのため偶然の機会に発見され、出土遺物によってはじめて経塚とわかることが普通で、経筒や副納品がどのような状態で埋納されていたかがわかる例は少ない。

綾部の経塚

綾部市内で発見された経塚は次の通りで、いずれも偶然に発見されたものであり、出土遺物も完全には残されていない。

上野町藤山経塚四基昭和十二年発見

鍛治屋町一の宮経塚三基以上明治二十八年ころ発見

高槻町篠神社経塚一基大正十三年発見

広瀬町甲ケ峯経塚一基昭和三十九年発見

殿山経塚一基昭和二十八年発見

この外に、経塚ではないかと思われるものが私市町の畑地に一基と、西方町藤波神社の後方山頂に一基ある。いずれも小さい封土がみとめられるものであるが、出土遺物を見なければ詳しくはわからない。

各経塚の出土遺物の状況などについては、各説編にゆずることにする。

これら経塚の造営の願主が誰であったかは、出土物に記名が一つもないのでわからない。けれども副納品等から見て、一二世紀の経塚造営の最盛期に作られたものと考えられることから、平安時代末期から鎌倉時代初期へかけてのころ、この地方に住んでいた在地領主、あるいは僧侶・豪族であっただろうと思われる。これらの地方有力者が末法を克服し、来世を祈り、あるいは現世利益を願って造営したものと考えられる。(注)

大般若写経綾部市内には、平安時代から鎌倉・室町時代へかけての古い大般若写経が保存されている寺がある。

上延町東光院志賀郷町興隆寺館町楞厳寺

などである。

東光院は高野山末の真言宗寺院で、正暦寺とも関係があり、古い由緒をもっている。いま所蔵されている大般若写経は約三〇巻で、全巻六〇〇巻のうちの一部である。いずれも紙本墨書で、奥書に年号や書写者名、その他の記事があって参考になるものである。

最も古い記事のものは、第四七二巻で、

仁平二年八月十一日丹波国何鹿郡矢田郷東中村

奉書之僧興鑒生年七十一

と記されている。仁平二年(一一五二)は、平氏が勢力を一気に伸ばす保元の乱の四年前のことである。

僧興鑒が願主であって奉書したのか、別に願主があったのかわからないが、矢田郷東中村の名が出ていることは村落形成を考える上で大切な資料となるものである。大般若経六〇〇巻は、書写したり買い求めたりして全巻をそろえたものとみえて、どの寺院のものでも各種の年代や形式のものが混っている。東光院の写経も平安末期から室町期のものまで含まれている。奥書で注目されるのは、

文永十癸酉三月廿二日遠州□岩室寺南谷書写之畢

明応六年六月二日古曾戸致参籠書写之右筆生年廿四歳宝隆寺常住也

第五百七十丹波国何鹿郡志万庄法隆寺

などであり、遠州で書写されたものがあることや、岡町の木曾殿神社に参籠して書写したこと、また東光院を宝隆寺・法隆寺と記していたことなどがわかって貴重である。

志賀郷町興隆寺の大般若経は大部分が紙本墨書の写経で、平安末期のものが多く、鎌倉・室町時代の写経も混入しており、永徳年間(一三八一ころ)の木版経も入っている。江戸時代の享保十九年に、種々の経巻を購入して六〇〇巻にそろえたものと思われる。

館町楞厳寺の大般若経は、藤原時代の写経と思われる優秀な紙本墨書の経本であるが、残念ながら湿気のため固着して容易に開くことができない。この大般若経はもともと本寺にあったものではなく、天田郡佐々岐上山保の新宮院にあったものを、天正四年に米二石で買い取ったものであり、そのことが経櫃(きょうぴつ)の蓋(ふた)に記されている。経と経櫃ともに重要な文化財であり、市の文化財に指定されている。

これら大般若経を写経した人たちの願いについては、興隆寺写経の第六百の奥書に、「右為息災安穏武運長久子孫繁昌悉皆満足也」と記されている。

この写経の本文は平安末期のものと考えられるが、奥書は異筆で、あるいは時代が少し下るかもしれない。武運長久の文字があるあたり、武士の書写によるものかもしれないが、一切の現世利益を求めていることだけはよくわかる。

第四節伝承

高津八幡宮の金鳩

社伝によると、奈良時代に法道仙人がこの地に密教練行の道場を開いたといわれる。平安時代に入り元慶五年(八八一)に山城国石清水八幡宮より金鳩が飛んできてこの山に止まり、奇瑞を現したので、時の人はこれを朝廷に奏上した。国司橘良基は勅命をうけてこの地に来て調べたところ、事実であったのでその旨報告した。それで勅命によってこの地に石清水八幡宮の別宮として八幡宮が創建されたという。

高津八幡宮には別当寺として極楽寺を設け、盛んなときは五坊の塔頭と千余石の寺領をもっていたと伝えている。明応九年(一五〇〇)に炎上し、社殿・宝物等はすべて焼けてしまったが、このとき焼け残ったといわれ、焦げあとを残す木造の狛犬二体が保存されている。この狛犬は鎌倉時代の作といわれている。

なお現社殿は、嘉永五年に綾部藩主九鬼隆都の援助を得て、宮大工桑原兵右衛門が建てたものである。

第二次大戦後、綾部に遊んだ歌人の吉井勇が次のように歌っている。

美しき綾部の空を見つつ思う

今もとべるや金色の鳩

正暦寺と雨乞寺伝によると正暦二年(九九一)、天下は旱天がうちつづき人民は苦しんだので、聖楽上人が雨を天に祈ったところ、験あってにわかに降雨があった。時の天皇がこれを聞かれてその功を賞し、年号の正暦を寺号に与えられ、勅願寺に準ぜられたという。こうした由緒があってか、九鬼藩では雨乞の祈祷を正暦寺で行うことにしていた。

年号をもって寺号にしたのは、弘仁十四年(八二三)の延暦寺をはじめとするが、その後に数か寺の例があり、いずれも官寺的な寺院である。正暦寺は天慶年間(九三八~九四六)、空也上人によって須知山の主峯霊山(りょうぜん)に創建された須知山鏡智院の後身で、中興の聖楽上人がいまの地に移したという。

本寺には鎌倉時代後期の作で、兆殿司筆と伝える仏涅槃図(重要文化財)や、那智山の本地仏で鎌倉時代初期の作と考えられる千手観音像(市指定文化財)・覚鑁上人作と伝える不動明王像などがあり、古い由緒を物語っている。

平重盛と綾部寺町の桜ケ丘公園の一隅に、高さ二メートル余りの巨大な自然石を用いた「平重盛公之碑」が建てられている。背面の銘文によると、昭和六年に当時の町長・綾部小学校長・正暦寺住職を発起者として、忠孝をすすめるために建てたとしている。重盛と綾部の関係については前に述べた伝承を記し、井倉八幡宮も重盛の勧請であって、扁額の「八幡別宮社大菩薩」の文字は重盛の筆としている。

「丹波史年表」には、仁安三年(一一六八)重盛が何鹿郡綾部里を領したとあり、「綾部藩記」には重盛が熊野三山を綾部に勧請したこと、井倉八幡宮の扁額は重盛の筆と伝えることなどを記している。こうした伝承をもとにして、寺町の「重盛之碑」の銘文が刻まれたものである。

綾部と平重盛を結びつける確実な資料はいまのところ見あたらない。ただ平氏一族が丹波の国司に多数任じられていることから、あるいは平重盛の所領が綾部にあったかもしれないと考えられるところである。

(注)文化財の説明文は府教委「京都府の文化財丹波篇」および府教委技師の報告による

経塚の項は府教委堤圭三郎氏の報告による

お問い合わせ

教育委員会教育部社会教育課

京都府綾部市里町久田21-20

電話番号:0773-43-1366(直通)

ファクス:0773-43-2134

Eメール:info@ayabe-museum.org

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