住んでよかった… ゆったりやすらぎの田園都市・綾部

  • サイトマップ
  • 組織案内
  • 市へのメール
  • 携帯サイト
  • Foreign Language
文字サイズ
拡大
縮小
色合い
標準
青地に黄色
黄色地に黒
黒地に黄色

ホーム > 教育・文化・スポーツ > 資料館 > 綾部市史 > 原始古代編(第5章)

ここから本文です。

更新日:2019年6月25日

原始古代編(第5章)

平安時代の何鹿郡

第一節国史に出ている何鹿郡

『六国史』とよばれ、『日本書紀』をはじめとする六つの勅撰歴史書のうち、最後に出された『日本三代実録』(以下三代実録)(八五八~八八七)には、何鹿郡に関する記事がいくつか出ているのでそれを紹介する。

仏南寺『三代実録』貞観五年(八六三)六月三日の条に、

以二丹波国何鹿郡仏南寺一為二真言院一即付二国司検校一

とあり、里町の仏南寺は国によって真言院とされ、国司の監督をうけるようになった。こうした官寺は財政的な援助を受けるかわりに、護国法会などを行うことが義務づけられたものである。このように地方寺院が官寺とされるのはまれなことである。

いま仏南寺には、貞観時代の様式をもち、一〇世紀ごろの作といわれる木造の虚空蔵菩薩立像と、平安後期の作といわれる木造の大日如来坐像が安置されている。この仏南寺と綾中廃寺とはどういう関係にあったのか、いまのところ何ら証すべき資料はないが、いずれも何鹿郡に唯一の大寺として同じ系譜にあったものではなかろうか。

七~九世紀に寺院が造立されるためには、かならず大壇那がなければならない。綾中廃寺の造立者については、郡司クラスの豪族が考えられるが、人名については全く手がかりはない。平安時代の初期に豪族らしい人名が出てくるのは、後に記す刑部首夏継と弟宮子、および秦貞雄である。刑部首夏継は従七位下の官位をもらっており、天田郡大領の丹波直広麻呂の官位が従六位下であるから、それと比して夏継は何鹿郡大領もしくは少領の郡司であったのではなかろうか。また秦貞雄は山城に本拠をもつ秦氏の一族と思われ、そうなれば大きな経済力をもち仏教信仰もあつかったはずだから、造寺の檀那であったかもしれない。この刑部氏か秦氏が仏南寺の大壇那であったことが考えられる。

物部?掃(すはき)神貞観十一年(八六九)十二月八日の条に、

授二丹波国正六位上物部?掃神従五位下一

とあり、物部の須波伎部神社が正六位上から、従五位下に昇位したことを記している。?掃神は須波伎物部氏の氏神であったものと思われ、正六位上を授位されたのはいつのことかわからない。

阿須々伎(あすすき)神社元慶三年(八七九)十一月九日の条に、

丹波国言上慶雲見二管何鹿部阿須々岐神社一

とある。丹波の国司から同社に慶雲があらわれたことを報告したものである。『治部式』によると、「慶雲は状烟(けむり)の若(ごと)くにして烟にあらず雲の若くにして雲にあらず大瑞なり」とあり、天下の慶事としている。最初に慶雲の現れた記録は七〇四年で、慶雲が見えたので国家の吉兆とし、大赦を行い、年号を改めて慶雲元年としたと『続日本紀』に記されている。『延喜式』には慶雲のほか、景星・白鹿・青鳥など多くの珍しいものを祥瑞として記している。

刑部(おさかべのおびと)首貞観六年(八六四)三月四日の条に、

丹波国何鹿郡の人従七位下刑部首夏継が豊階宿称(とよしなのすくね)の姓を賜わり弟宮子は豊階朝臣(あそみ)を賜った夏継兄弟は自分らは彦坐王の後裔であるといった

と記されている。刑部というのは御名代部で、首(おびと)はその首長に与えられた姓(かばね)である。宿称・朝臣の姓は天武天皇のときに改められた八姓の一つで、刑部氏は姓を与えられた本郡の名家であり、地方豪族であった。

漢部福刀自(とじ)貞観八年(八六六)九月二十日の条に、

丹波国何鹿郡の人漢部福刀自は夫を亡くしてから二十二年の間よく孤独を忍んで貞節を守りつづけたこれは真の節婦なので特に優遇し位を与え租税を免じ村の入口に標札をかかげて表彰する

と記されている。福刀自は漢部郷の人で、漢部を称していたものであろう。

漢部妹刀自(いもとじ)仁和三年(八八七)六月五日の条に、

丹波国何鹿郡の人漢部妹刀自は年一四歳で秦貞雄に嫁ぎ二男一女を生む貞雄の死後三十二年の間常に素服を着て節を守り再婚の情なく遺児を養育したので国司が節婦として申請した勅により位を与え租を免じ村の入口に標札をかかげて表彰する

とある。妹刀自は福刀自と同じく漢部郷の人で、漢部を称したものであろう。秦貞雄は山城の太秦を本拠とする秦氏の一族であると思われる。漢氏の部である漢部の地に、同じく渡来人系の秦氏がいることは、あるいは養蚕や絹をつくることと関係づけて考えてよいのかも知れない。

第二節式内社

神社

神をまつることは原始時代の自然崇拝の習俗からはじまるといわれる。縄文時代には土偶などがあって原始信仰をしめすものと考えられているが、弥生時代に入り、稲作を中心とする農業が行われるようになると、日・雨・風・山・水源などをまつるようになる。これは自然や精霊の崇拝であって、このころにはまだカミという概念は成立していなかった。古墳時代になると、カミの概念は成立したが、神社という施設を設けてカミをまつるようになるのは、大和国家が成立し、神社を集落統治の中心にするようになってからのことである(注1)といわれている。

神社が設けられても、神殿として特別な施設がなく、山や森、あるいは大きな岩がそのまま御神体としてまつられることが多く、大和の三輪山はその例として有名である。何鹿郡の古い神社にもその形は見られ、口上林十根の河牟奈備神社は裏山が御神体であったと思われるし、白道路の南側にも神なび山があり、ふもとの下宮神社は「こうなみ権現」とよばれている。また、いまも山や滝や岩に小さい祠(ほこら)があってまつられているのは、古代の信仰形態を残しているものといえよう。

律令国家の制度が整えられると、国・郡・里ごとに氏神をまつらせて集落を治める中心とし、村落の首長が祭祀をつかさどった。そして農耕に関する祈年祭と新嘗祭には、村人を社に集めて田の神をまつらせたという。(儀制令集解)

式内杜

これら神社のうち、『延喜式神名帳』に記されたものを式内社とよんでいる。式内社は、国の公的な神社として官幣もしくは国幣を捧げられる社であるから、地域で大きな位置を占めており、これによって、当時の村落の所在と大きさなどを推定する手がかりとなるものである。

何鹿郡の式内社は一二座であり、みな小社である。丹波の他郡では、桑田大二・小一七座、船井大一・小九座、多紀大二・小七座、氷上小一二座、天田小四座である。何鹿郡式内社一二座は次の通りである。

須波伎部(スハキヘノ)神社阿比地(アヒチノ)神社

阿須須伎(アススキノ)神社御手槻(ミタツキノ)神社

佐陀(サタノ)神社河牟奈備(カムナヒノ)神社

伊也(イヤノ)神社赤国(アカクニノ)神社

高蔵(タカクラノ)神社佐須我(サスカノ)神社

島萬(シママノ)神社福太(フクタノ)神社

(国史大系延喜式)

これらの神社で、現在まつられているどの神社にあたるかはっきりしないものもある。明治初年に式内社と現在の神社との比定が行われ、由緒の申請にもとづいて京都府が認定したが、意見が分かれて認定にならなかった神社もある。ここに従来からの通説にもとづいて各神社について由緒を記す。

須波伎部神社

所在綾部市物部町須波岐

祭神天照大神「渡会氏神名帳考証」(以下神名帳考証とする)には弥都波能神、水稚姫とある。

由緒いまは須波岐部神社としている。大同二年(八〇七)須波伎山に創建、元和九年(一六二三)の再建という。?掃(すはき)明神・日光大明神などとよんでいるが、須波伎物部の物を省き神社名となったものかといわれている。物部氏との関係からか、前に記したように貞観十一年、従五位下の神位を浮けられた有力な神社である。

なお、当社神宮寺の中谷山天慈院は境内に接してあったが、現在は薬師堂だけが残っており、等身大の本尊薬師如来坐像がある。室町時代中期を下らないものといわれている。(府報告書)

阿比地神社

所在福知山市字興

祭神天照大神「神名帳考証」では火明命という。

由緒創建は不明である。元来高津郷の氏神であったが、元禄十三年国絵図改めのとき、興村・観音寺村とともに天田郡に編入されたから、現在は福知山市に入っている。

当社はもと観音寺村の南山麓にあったものといわれ、(神社由来記)社跡は観音寺本堂のある付近と推定されている。(志賀剛式内社の研究)

阿須須伎神社

所在綾部市金河内町東谷

祭神天御中主神・高産霊神・神産霊神

「神明帳考証」は、上代では阿遅須伎高彦根命かとしている。『何鹿郡誌』は三神のほかに道主貴神(みちぬしのむち)を加え、「志賀郷村誌」では市杵比売命とまちまちである。

由緒創立は不詳であるが、和銅六年(七一三)改祭し、社殿は享禄元年(一五二八)再建したと棟札にある。旧社跡は坊口町との境で、南面した丘陵上にあったという。江戸時代に金宮大明神と唱えるようになったが、中世までは吾雀宮と称していた。

明治二年久美浜県庁より式内社の指定を受けたが、のち明治十二年篠田神社と式内争いとなり、阿須須伎の神社名を使用することのみ許され、式内社指定の取り消しとなって現在に至っている。

秋の大祭には氏子四村より奉納する能舞・大刀振・風流おどりなどが古式によって行われ、また金的を射る儀式や、節分に行われる茗荷占いなど、有名な神事を伝えている。

御手槻神社

所在綾部市位田町岩井

祭神伊邪那岐命、「神名帳考証」では豊宇気姫命としている。

由緒創立年代は不詳、祭神については従来諸説があったが、昭和十一年祭神決定を申請し、「特選神名牒」および伴信友の説を採って決定された。

俗に御手槻大明神・満月大明神などといい、日月を以て神紋としている。当社はもと吉美の里の氏神であったが、のちに位田に譲ったとの伝承がある。地理的位置からみて吉美郷に属していたと考えても無理はなく、現に里町は氏子になっている。

河牟奈備神社

所在綾部市十倉名畑町古気良

祭神天下春命「神名帳考証」では神魂命となっている。

由緒社伝によれば和銅二年に創立され、賀美拝師の氏神であったとしている。元亀・天正のころ兵火にかかり、旧記宝物すべてを焼失したという。

昔から大宮一休大明神ととなえ、背後の山を「かなみ山」と呼んでいるのは、神奈備山からきたものであろう。

伊也神社

所在綾部市広瀬町城山

祭神大日霊貴尊・素盞鳴尊

「神名帳考証」では大屋彦神となっている。

由緒当社はもと広瀬町伊也ケ谷(伊神(いがみ))にあったが、天正年間大火にかかり、谷氏陣屋の山手である現在地に遷した。今も旧宮跡を御社(ごしゃ)と呼んでいる。明治三年谷藩庁の火災に類焼し、宮大工桑原直右衛門によって再建された。

社伝によると伊也神社は、丹波道主命によって奉斎されたことになっている。

赤国神社

所在綾部市館町宮ノ前

祭神瓊瓊杵尊・猿田彦命・天宇須女命

「神名帳考証」によると下照姫となっている。

由緒社伝によると、もと丹国社と書いたが、のちに赤国社と書きかえたといい、はじめは稲葉山の尾根続きにある宮の段にまつられていたと伝えている。慶長五年兵火に類焼し、什宝記録を焼失した。江戸時代のはじめころまで旧暦八月に行う十日祭りには、五穀豊饒・悪疫退散を祈って高槻の梅若太夫が能楽を奉納したという。

高蔵神社

所在綾部市西坂町宮ケ岳

祭神武内宿称、「神名帳考証」では高倉下(たかくらじ)命かとしている。

由緒社殿はもと宮ケ岳の項上にあったが中世に現地へうつされた。

境内社に八幡宮があって、旧暦三月十八日社前で鬼祭りが催される。二枚の標的に鬼と馬の字を書いて子ども三人に射させる行事であるが、昔源頼光が大江山の鬼を退治して、その帰途この社に戦勝を報告したという故事から生まれたものと伝えている。

佐須我神社

所在福知山市字私市

祭神須佐之男命・足名推命・手名推命

「神名帳考証」では彦狭島命となっている。

由緒創建年代は不詳である。古代は私部郷の氏神で、中世まで雀部庄を含む七か村の郷社であったが、応仁・文明の乱後社領を没収されて衰えたという。

島万神社

所在綾部市中筋町岩ケ下

祭神須佐之男命・大那牟遅(おほなむち)命・少那彦名命・足名推神・手名推神・櫛名田比売神

由緒社伝によると、天平九年(七三七)諸国に痘瘡が大流行し万民が苦しんだので、八田郷・吉美郷の人々が相はかり、社殿を造営して平癒を祈ったという。江戸時代まで当社に接して別当寺薬王山海蔵寺があって、本地仏薬王をまつり薬王大菩薩と称したという。

秋の大祭には太刀振りと太鼓おどりが奉納される。室町末期に源流をもつ神事がよく伝えられているもので、市の無形文化財に指定されている。

福太神社

所在綾部市上八田町寺垣

祭神須佐之男命、「神命帳考証」では保食神となっている。

由緒創建由緒は不詳である。社殿は元禄十二年の再建である。

佐陀神社

現在佐陀を神名とする神社はない。

栗町佐陀尾にある大川神社は苦から佐陀神社大川大明神ととなえ、式内社であると伝えてきたので、明治六年大川神社を式内佐陀神社と指定された。その後、同町沢神社側より沢はサダよりきた名称で、沢神社が式内佐陀神社であると主張したので、明治十年式内指定を取り消されたままである。大川神社蔵、寛永十四年(一六三七)に認められた神官橘有次の「大川神社由緒書」には、「前何鹿郡式内社十二社之内栗邑鎮座佐陀神社」に大川大明神を勧請してまつるようになったのは天長二年(八二五)で、「世上万人の知るところなり」とある。

こうした由緒からきたものであろうか、天明二年(一七八二)の古いのぼりに、「佐陀神社大河大明神」と書いたものが残っている。『地理志料』・『神祇志料』・『神社覈録(かうろく)』などはみな大川神社を式内社佐陀神社に当てている。

祭神については諸説があって、阿智使主(神名帳考証)・伊弉冊尊(神社覈録)・大山祇命(明細帳)・

佐太大神か(特選神名牒)などまちまちである。

第三節十六郷

十六郷

平安時代の承平年間(九三五ごろ)、源順によって編さんされた辞書の『倭名類聚抄』(倭名抄)に、何鹿郡には当時左の十六郷があったと記されている。『倭名抄』の記載順によって記すと、

賀美(カミ)拝師(ハヤシ)八田(ヤタ)吉美(ヨシミ)物部(モノヘ)吾雀小幡(ヲハタ)高殿私部(キサイチヘ)栗村(クリムラ)高津(タカツ)志麻(シマ)文井後(漢)部余戸三方(ミカタ)

となる。これらの郷が現在のどの地に比定されるか、先学の意見をもとにしながら考えたい。

賀美(かみ)郷

カミは鏡であるとして「鏡作部のおるところ」(日本地理志料)、「カミは上村で栗村庄にある」(大日本史国郡志)、「その上(みか)というより推せば山家などに当るごとし」(大日本地名辞書)、などと諸説があって定まらない。

時代は下るが応永十年(一四〇三)の「上杉家文書」に、三方郷に原村が含まれていると推論できる記事があり、また、古墳の分布状況からみて、味方郷には西原・下八田の地域を含んでいたと考えられる。原村を除いた山家は一郷になるほどの戸数があったと想定することはむずかしいから、余戸をあてるのが適当ではなかろうか。そうして賀美郷・拝師郷を合わせて上林となったと考えてよいと思われる。「東寺百合文書」、寿永三年(一一八四)の文書にすでに何鹿郡上林の地名が出ている。中上林・口上林の境にある河牟奈備神社の由緒には、「往古は賀美拝師郷氏神卜見エタリ」とある。

拝師(はやし)郷

『大日本地名辞書』に、「今上林の三村けだしこれなり山家の東北なる地にして一山谷をなす」とあるのを取りたい。五津合町にある室尾谷神社の由緒に、「伝えていう当社は初め拝師郷畑川村(五津合町)に鎮座し大室明神と称す」とあることからも、拝師郷を上林に当てることが適当と思われる。

八田(やた)郷

およそ旧東八田村・西八田村にあたる。室町時代は八田上村・八田下村(安国寺文書)と呼ばれ、江戸時代には上八田村・下八田村、時には東股村・西股村など呼ばれた地域である。

吉美(きみ)郷

『倭名抄』では吉美(よしみ)と仮名がつけてあるが、おそらく編さん者の誤りで、吉美(きみ)と読むのが正しいと思う。元禄十三年何鹿郡村高付帳には幾美(きみ)村とあるから間違いないであろう。元禄のころには里村が吉美郷の本村である。吉美郷は旧吉美村で、中世吉美荘といって西大寺の荘園になっていたことがある。

物部(ものべ)郷

旧物部村の地域である。氏神須波伎部神社名から考察すると、ここは古代国家の部民制による物部氏の民部(かきべ)で、物部の一族が居住地須波伎名をとって須波伎物部を称し、部民を率いて中央の物部の大連(おおむらじ)に属していたものと思われる。

吾雀(あすすき)郷

旧志賀郷村の地域である。『倭名抄』で読みをつけていないところをみると、編さん者は難解であったのであろう。しかし郷内に式内社阿須々伎神社があるから、吾雀(あすすき)と読むのが正しいのであろう。一説に、「吾雀(あささき)は何鹿郡にある『倭名抄』の郷名今志賀郷村の地なりあすすきと訛れり」(太田為三郎日本地名辞典)とあるように、現在あすすきを用いている。

一二世紀末より新熊野神社の荘園吾雀荘となり、康永三年(一三四四)の「妙法院文書」によると中村・西方・向田の三村に分かれている。「安国寺文書」寛正二年(一四六一)、広戸九郎左衛門尉の書状にも吾雀の名を用い、大永年中(一五二一~二七)志賀郷天王山城に吾雀入道がいたこともみえている。(川勝記)しかし桃山時代、豊臣氏の代官としてこの地を支配した田中石見守が、元和五年(一六一九)志賀郷の興隆寺に鐘を寄進して、鐘銘に丹波国何鹿郡志賀庄と入れている。これよりみて、戦国末期から吾雀の地名が志賀郷に変わっていったものであろう。

小幡(をばた)郷

旧小畑村にあたる。丘陵地帯で、六世紀から七世紀へかけての古墳が数多く存在しており、何鹿郡で最も古い四世紀に造られた成山古墳もある。域内の四寺院が全部奈良・平安時代の創立という密教寺院であることも、早くから開けた地域であることをしめしている。なお新庄は小幡新庄で、小幡郷から分かれたところである。

高殿(たかどの)郷

『倭名抄』では読みをつけていないが、おそらく高殿(たかどの)と読むのであろう。

従来この郷は不明とされ、東八田の高槻や中上林の日置殿など、高と殿の文字にとらわれた説が唱えられたことがあるが、いずれも十分でない。『倭名抄』の郷名の順序からみると、小幡郷と栗村郷の間にあると考えられるから、高殿は館・三宅・長砂・福垣・大畠を含む地域と考えられる。

『倭名抄』の字解によると、殿は宮殿、館は客舎と解読しているから、高殿が赤国神社・郡衙・館と転化して館の地名が生じたのではなかろうか。館が地名として固定したため、高殿郷名が消え、この地域は栗村郷に包含されたていったものと考えられる。

私部(きさいちべ)郷

旧佐賀村の地域にあたる。私部は古代国家の御名代部で、皇后の名代として置かれた皇室直領地であり、平安時代末から賀茂別雷神社の荘園地になっていた。

栗村(くりむら)郷

栗町を中心とした地域である。中世に栗村荘が置かれ、寛正二年(一四六一)の「安国寺文書」では栗村東西と出ている。近世には綾部藩に属し、栗村組としてまとめられていた。

高津郷

現在高津町と福知山市の観音寺・興にまたがる地域であり、平城宮出土木簡にも郷名が出ている。寛治五年(一〇九一)、丹波兼定の寄進状(松尾大社東文書)によると、高津郷は西に天田郡管[](雀部庄)と接しているから、福知山市の東部を含んでいたことがわかる。中世には、上高津は男山八幡宮の荘園となり、下高津(観音寺・興)は六人部新庄として平頼盛の荘園となっている。上高津・下高津の名は寛正二年の「安国寺文書」に見えている。

志麻(しま)郷

大島町を中心に延町・上延町・安場町と岡町の一部の地域である。平安時代の末、新熊野神社の荘園となった志万荘がこれである。

文井(あやい)郷

この郷は今日まで不明である。『日本地理志料』には「内久井」をあてているがこれは採れない。『大日本地名辞書』に、「今詳ならず阿也為(あやゐ)とよむか」とあり、あやいと読んだものであろうか。いまこの郷を地名的に考えて比定する地域は考えられない。しかし郷の記載順が、由良川の左岸を高津から志麻・文井・漢部と順序よく上流に向っているので、志麻郷と漢部郷の間にあったと考えられる。そうすると岡から井倉・神宮寺へかけての地域が考えられる。神宮寺には古墳群もあり、井倉には条里制の遺構と見られるものも残されているから、文井郷と推定することができる。

もう一つ考えられるのは位田である。位田の地名起源については明らかでないが、位階によってどの人物かに与えられた土地であろう。下位田には古墳群もあり、檜前という地名や太秦(うずまさ)と音の通じる氏政(うじまさ)神社があって、社殿は朱塗りになっている。「あやい」の「あや」は「漢(あや)」とも考えられ、渡来人との関係が想像されて、古くから開かれたところと思われる。そして由良川の流路は、かつては井倉の集落のすぐ北側を流れていた痕跡があり、奈良・平安時代にはそこを流れていたとすれば、位田は現河道をふくみ、その南側の広い平地を耕した集落であって、一郷の規模をもっていたと考えられる。

寛正二年(一四六一)の郡内村名は大部分が郷名とつながるが、上位田・下位田だけはつながるところがない。文井郷を位田とするのも一つの見解である。

漢部(あやべ)郷

『倭名抄』に後部とあるのは漢部の誤りである。『倭名抄』ょり約七〇年前の貞観年中に漢部の名が『三代実録』に出ている。漢部郷は旧綾部町のうち、味方町を除く由良川の南側の地域であろう。青野遺跡・綾中廃寺・野田古墳など、郷の存在を裏付けるものがある。

漢部は古代の部民制による職業的品部で、絹織物などの手工業に従事した漢氏の支配地であったのであろう。室町時代の明応五年、「上杉顕定所領目録」に丹州漢部村の名がみえるが、江戸時代からは漢部を綾部と書くようになった。

余戸郷

郷制で五〇戸に満たない郷を余戸(部)郷と称した。この地をどこに比定するか、いまのところ定説はないが、郷名の記載順と地理的条件から考えて、旧山家村のうち西原などを除いた地域ではなかろうか。この地域は面積は広いが古墳はまだ一基も発見されていないし、他の平安時代の遺跡も見つかっていないから、一郷に在るほど開けていなかったと思われる。記録の上で「山家」が出てくるのは寛正二年(一四六一)の「安国寺文書」が初見である。余戸郷は旧山家村の中東部と考えたい。

三方郷

味方町がその遺称である。古代の三方郷は味方と下八田・西原を含んでいたと思われるが、『寛知集』に「味方西原野田和木下原ノ諸邑ニ亘ル」と記すように、野田は別としても和木・下原を含んでいたかも知れない。

三方は御県(みあがた)で、大和朝廷の治下にくみ入れられた地域からきた名であるとする説があるが、どうであろうか。しかし西原から味方・下八田の久田山へかけて数十基の古墳があり、さらに味方から西原へかけての河岸段丘からは縄文時代の遺物が発見されているから、最も古くから開けた地域であることは確かである。

第四節荘園のはじまり

荘園のおこりと展開

古代律令国家は八世紀のはじめ、大宝律令の制定・施行と平城京遷都によって、形態的に完成したとされている。

ところが、律令制定後間もなく、班給すべき土地の不足から土地の開墾をすすめ、養老七年(七二三)に「三世一身法」をさだめ、天平十五年(七四三)には「墾田永世私財法」を出した。この私財法は、私有地=荘園を認めるものであり、律令制の崩れる最初の法として有名である。これによって有力な社寺・貴族などは積極的に墾田開発をはじめ、班田農民や奴婢・浮浪人などの労力を使って、荒地・空閑地を開いていった。こうして開かれた私有地を自墾地系荘園、また初期荘園とよんでいる。八、九世紀にこうしてつくられた自墾地系荘園は一〇世紀には衰亡するものが多くなった。一〇世紀から一一世紀へかけて、古い荘園内で耕作経営にあたっていた有力農民たちは、浮浪人などを使って墾田をふやし、口分田を買得したりして小地主となっていった。彼らは自分の占有する土地に自分の名をつけたので、これを名田(みょうでん)よび、所有者を名主(みょうしゅ)とよぶようになった。

一〇世紀に入ると、六年毎に行われるはずの班田が一二年に一度となり、その後はしだいに行われなくなった。浮浪人や逃亡人が多くなり、また課役を減らすために戸籍を偽って登録することが当たり前のようになって、公民を確実に把握することができなくなっていった。そのため調・庸などの租税は国司が請負うようになり、国司は定められた一定額を中央に貢納し、あとは自分の収入とするようになった。また農民も公田の請作をするようになり、それがしだいに耕作権を強めて私領化し名田としていった。こうした農民の名田も、一一世紀になると多くは在地領主に吸収されて、それら領主の私領と化していった。

もともと荘園は、国衙領と同じく租を出す義務があったが、有力な貴族や社寺の荘園は不輸不入の特権をもつようになった。不輸とは国の租税を出さないこと、不入は国衙の検田使などの役人を荘園へ入れないことである。この特権をもつことによって、荘園領主は租税を出さないだけでなく、荘内の警察裁判権までも持つようになった。

在地の小領主たちは、私領を守るために、自分の土地を有力な社寺や貴族に寄進してその荘園とし、荘園領主を本所(ほんじょ)・領家(りょうけ)と仰いで一定の年貢を納め、自らは在地にあって、預所(あずかりどころ)・下司(げし)・公文(くもん)などの荘官となって領地を直接支配し、やがて武士となっていった。何鹿郡の中世文書にもこうした荘官名や武士の名が出てくる。このような寄進による荘園を寄進地系荘園とよび、一一・一二世紀に急激に増加するものである。

また在地領主は国衙の役人、すなわち在庁官人(ざいちょうかんにん)にもなり、年貢を請負うことによって公領の私有を国衙に認めさせて別名(べつみょう)とするようになって、国衙領も実体的には荘園と変わらないものになっていった。

何鹿郡の荘園

 

何鹿郡内の荘園として記録にあらわれるのは次の通りである。年は初出の年である。

矢田荘天元三年(九八〇)「某寺資財帳」

吾雀荘養和元年(一一八一)新熊野社領院宣

志万荘同同同

小幡荘承安五年(一一七五)女院領「玉葉」

私市荘寿永三年(一一八四)賀茂別雷社領

栗村荘文治二年(一一八六)崇徳院領「吾妻鏡」

高津荘寿永年間(一一八二~四)八条院領

漢部御厨仁平年間(一一五一~四)大神宮領

上林荘寛喜元年(一二二九)神護寺領「神護寺文書」

吉美荘文応元年(一二六〇)西大寺領「丹波史年表」

矢田荘については、『平安遺文』所載の某寺資財帳に

丹波国矢田荘二町余故住持御忌日料

と出ており、『和名類聚抄郷名考証』には、何鹿郡八田郷のところに矢田荘をあてている。その後の資料が全くないため、何鹿郡矢田荘であったかは確認できないが、延長四年(一二五二)に上杉荘が出てくるから、同じ地域であるので、矢田荘は何鹿郡八田荘としてさしつかえないと思われる。

これらのうち、上林荘・吉美荘以外の荘園がいずれも一二世紀の末にはじめて記録に出てくることは、そのころに荘園となったことをしめしている。このことから考えて、一二世紀には何鹿郡に在地領主として勢力をもったものが何人かおり、中央の権門勢家に所領を寄進して、荘官として在地を支配していたものであろう。これら荘園のその後の動きについては、中世編の記述にゆずることにする。

(注1)和歌森太郎古代の社寺と郷土文化郷土史研究講座2

お問い合わせ

教育委員会教育部社会教育課

京都府綾部市里町久田21-20

電話番号:0773-43-1366(直通)

ファクス:0773-43-2134

Eメール:info@ayabe-museum.org

より良いウェブサイトにするためにみなさまのご意見をお聞かせください

このページは分かりやすかったですか?

このページは見つけやすかったですか?

このページは役に立ちましたか?