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更新日:2019年6月25日

原始古代編(第4章)

律令制下の何鹿郡

第一節律令国家と丹波

大化改新

大和朝廷は五世紀には組織的に確立し、その力をもって朝鮮半島へ進出した。それにともない仏教が伝えられ、また多くの技術をもった人々も渡来して、大和朝廷の組織にくみ入れられて大きい活動をするようになった。七世紀のはじめには遣隋使や留学生も派遣され、万里の風濤を越えて中国におもむき、文化や政治制度を学んできた。

こうして大陸の影響を強く受ける中で、国内政治の上でも矛盾が大きくなり、国家の支配体制を変えて強力な中央集権国家をつくる必要にせまられてきた。六四五年(大化元年)、中大兄皇子(のちの天智天皇)・藤原鎌足たちによって蘇我氏が滅ぼされ、ただちに改新の政治がはじめられた。改新の政治のめざすところは、私有の土地・人民を国におさめて公地公民とする。戸籍・計帳をつくって班田収授の法をおこなう。税は租・庸・調と、兵役・雑徭などの労役によるものとすることなどであった。

これにより改新の政治は、旧来の勢力と対立しながらも大化年間を通じて進められ、さらに天智天皇の死後におこった壬申の乱を勝ちぬいた天武天皇によって強力に進められ、律令体制としてかためられた。大宝元年(七〇一)に完成された大宝律令、さらにこれを補正した養老律令(七一八)によって法制として整い、奈良時代より平安時代を通じて実施された。こうした律令による国家の政治体制を律令国家とよんでいる。この律令は平安時代に入って摂関政治から院政へと質をかえていき、封建社会になるとその実質的な力を失ってしまうが、形式的にはうけつがれて明治に至るまで残っていった。

律令体制

律令の政治機構としては、中央に神祇官・太政官の二官をおき、その下に八省をおいた。地方は国・郡・里(のちに郷)に区分し、国司・郡司・里(郷)長をおいて、地方の政治にあたらせた。丹波国・山城国などの国の単位と国司の制は、おそくても天武五年(六七六)までに行政単位としてあらかたできていたとされている。

軍事制度としては、京に五衛府(のちに六~八となる)、地方は国毎に軍団をおき、二一歳から六〇歳までの健康な男子を正丁とし、その三、四人につき一人を兵にとった。兵は国司の指揮下に入り、毎年交替で都の衛府に属し、衛士となって宮廷・官庁の警備にあたった。また主に東国の兵は三年交替で防人として九州におもむき、沿岸の防備にあたった。この兵役は農民にとって最も苦しい負担であり、そのため逃亡する者も多かった。

田制としては班田収授の法が行われた。公民は、六歳以上の男子に二反、女子はその三分の一の一反一二〇歩、奴婢はその三分の一が口分田として与えられた。そして田の租とともに庸・調の税が課せられた。

戸簿・計帳

これら田制や軍制を実施するために戸籍と計帳がつくられた。戸籍は戸ごとに作製され、それをまとめた計帳が里(郷)ごとにつくられた。戸籍は六年毎に、計帳は毎年つくられて六年の間の異動を記した。ここにいう戸はいわゆる郷戸(ごうこ)であって、房戸(ぼうこ)といわれる自然単一家族をいくつか集めた大きい戸である。構成家族の数は二〇~三〇人もあり、中には一〇〇人をこす戸もあった。この家族の長を郷戸主とよんでいる。郷戸は律令制のとらえる農民の単位であり、口分田が班給され、租税を負担し、兵役につく単位となるものである。近ごろの研究では、六、七世紀に築かれた群集墳を精細に分析して、そこに郷戸・房戸の存在をみとめ、何戸の郷戸があったかまでを推定している。以久田野や久田山の古墳群をこのように分析することができれば、当時の村落や家の状況を知る手がかりがつかめると思われる。

郷戸五〇戸をまとめて一里(郷)とするわけである。一戸平均二五人とすれば、一里には約一二〇〇~一三〇〇人が住んでいたことになる。

この里を霊亀元年(七一五)に郷と改めた。この戸籍によって中央政府は国民を直接的にとらえ、口分田を班給するとともに租税を徴集し、種々の役務を課した。

班田と租税

さきに記したように公民は男女それぞれに口分田をわけ与えられ、班田に応じて租を出すことが課せられていた。平安初期には標準の反収がきめられており、『延喜式』によると、田の質は上田・中田・下田・下々田の四等に分けられ、上田の標準収穫高は反別五〇束、中田は四〇束、下田は三〇束、下々田は一五束となっている。一束の稲は玄米にすると約二升となるから、上田の反収は約一石ということになる。この中から約三パーセントの租を納めることになっていた。この租だけ考えればそう重くないようだが、その他の課役が農民にとって非常な負担となったものである。

課役は調(ちょう)と庸(よう)と雑徭(ぞうよう)との三つからなり、調は絹・?(あしぎぬ)・布などのあまり高度の技術を必要としない繊維製品やその土地の物産を納める。庸は一〇日の労役であるが、その代わりに一丈四尺の庸布と庸米五斗を出す。雑徭は年間一人六〇日の身役労働であり、国司や郡司の指揮のもとで、国内の土木工事などに従事した。

これらの課役は正丁(二一~六〇歳)や次丁(六一~六五歳)・少丁(一七~二〇歳)など、成年またはそれに近い年齢の男子に対して課せられたものである。そのため農民が窮乏してくると、土地を捨てて逃亡して浮浪人となったり、貴族や寺社の荘園へ流れこんだり、また戸籍そのものが偽造されて女子ばかり多くなり、正丁が少なくなるようなこともあった。

丹波の貢納物

一〇世紀のはじめころにできた『延喜式』に記されている丹波国の貢納物産は左の通りである。

出挙正税公廨雑稲正税廿三万束公廨廿五万束国分寺●(りょう)四万束文珠会●二千束圓成寺●一千束?園寺●一千束修理池溝●三万束救急●四万束修理駅家●二万束官舎●四万束造院●一万束(●は米偏に斤)

交易雑物(きょうやくぞうもつ)白絹十二疋赤絹五百五十疋糸七百五十絢油三石鹿革十張粟十石大豆卅石胡麻子五石栗子卅石膠黒葛廿斤刈安草五百圍隔三年進醤大豆五石

別貢雑物墨二百廷紙麻七十斤漆二斗七升柏一百二十俵以二五十把一為レ俵把別五十枚掃墨五石斐紙麻一百斤

調両面五疋小許春羅(アヤハトリノウスモノ)一疋一?綾七疋二?綾各五疋白絹十疋緑帛十疋帛二百廿疋自余輪ニ絹綿一

庸韓?四十二合塗レ漆著レ?五合白木卅七合自余輸レ米

中男(ちゅうなん)作物黄檗四百斤紙黒葛漆胡麻油蜀椒平栗(ヒタイクリ)搗栗子(カチクリ)

交易雑物というのは、国司の方で正税をもって買い入れて納めるものであり、中男作物は少丁の負担するもの、調はその地の特産物を出すことになっているから、ここに記されたものはいずれも丹波の特産的な産物であったと思われる。これを見て、まず絹が多いことに気づく。しかもそれが粗末な?でなくて絹・綾・春羅などの高級品であることは、丹波に養蚕が進んでいたことともに、製糸織物の高度の技術をもった人が住んでいたことを想像させる。地名の桑田郡や漢部郷がそれと関連づけて考えられるところである。その他に栗や漆が特産であったらしいことから、丹波粟の名や漆かきの業なども、このころに起源をもつように考えられる。

 

国衙(こくが)と国司

丹波国は和銅六年に、加佐・与謝・丹波・竹野・熊野の五郡をさいて丹後国がおかれたため、桑田・船井・多紀・氷上・天田・何鹿の六郡となった。神亀年間(七二四~七二九)には「郡六郷七十二里百十九」(史籍集覧本律書残篇)とあって、平安初期の『倭名抄』の記事とほぼ同じ構成となっている。国の政務をとる者を国司といい、守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)の四等官に分けられた。丹波の国司は、和銅元年(七〇八)三月、従五位上大神(おおみわ)朝臣狛麻呂が任じられた(続日本紀)のが初見である。養老三年(七一九)には丹波の国司小野朝臣馬養(おののあそみうまかい)が丹後・但馬・因幡の三国の按察使(あぜち)を兼任した。按察使というのは、諸国司の政治を巡視し、不正を摘発して処罰し、優良な国司は中央に報告して賞するという役であった。

国司の政庁を国衙といい、その所在地を国府という。この地名は各国に国府・国府津・府中などとして残っている。『倭名抄』に、「丹波の国府は桑田郡に在り行程は上るに一日下るに半日六郡を管す」とある。桑田郡に国府があったことは確かであるが、いまのどの地にあったかは諸説があって定まらない。

国衙は方二町の広さの域内に政庁や居館・正倉などをもっていた。農民の納める租稲は正倉に納められ、その一部は舂米(しょうまい)といって精白して都へ送られ、残りは農民に貸し与えて、秋には五割の利稲を加えて徴収した。これを公出挙(こうすいこ)という。この利稲によって国衙の経費のほか諸経費をまかなったのである。

国司は中央政府から任命された者で、任地において政治をおこない、在地の豪族から任命された郡司は直接に農民を支配した。

第二節何鹿郡

 

平城宮出土の木簡

何鹿郡名の最も古い記録は、平城宮跡出土の木簡である。木簡は木片に墨で字をかいたもので、品物を輸送するときの荷札として使われ、また往復文書の代わりにも用いられたもので、平城宮跡からは、昭和四十七年までに約二万点の木簡が出土している。そのうちに丹波国に関するものが数点あって、何鹿郡から出したものが一点ある。これらによって、当時の郡・郷・里や貢納物のようすの一端がわかるので次に記しておく。

A丹波国何鹿郡高津郷交易小麦五斗(口絵参照)

B丹波国船井郡出鹿郷曾尼里秦人吾□米

C表丹波国氷上郡石□(負か)里笠取直子万呂一俵納

裏白米五斗和銅□年四月廿三日

D表丹波□(国か)□□□□□(負か)□里□(干か)□□(部か)□牟一俵

裏納白米五斗和銅三年(七一〇)四月廿三日

E表氷上郡井原郷上里赤搗米五斗

裏上五戸語マ身

Aの何鹿郡の文字のある木簡は、昭和三十九年十二月十九日に平城宮東大溝から、和銅開珎ほか銅銭・土器・木器などとともに出土したものである。寸法は長さ二四一、幅二八、厚さ五(単位ミリメートル)の板で、材質はわからない。

交易(きょうやく)というのは正税の稲をもって購入して貢納するもので、五斗は一俵である。この木簡は伴出したものからみて、天平末年から天平宝字へかけてのころ、すなわち七五〇~七六〇年ころのものと考えられている。(注1)この木簡から考えて、八世紀の中ごろには何鹿郡があり、また高津郷の名があるところから、おそらく『倭名抄』に記された十六郷は、このころにはできていたものと思われる。

郡名考

 

「何鹿」の読み方については、『倭名抄』に伊加留我と訓註しているから、イカルカと読んでいたことがわかる。イカルカの郡名のおこりについては、『丹波志』総国何鹿郡の条に、「按スルニ此郡鵤(イカルカ)多ク産栖ス因テ号シ文字ヲ転セラレタルカ」また『丹波誌』何鹿郡の条に、「郡名の起因詳ナラズ斑鳩(イカルカ)ノ産地ナルヲ以テ古人ガ?(シカ)名ヅケタリト言フ」とあるように、イカル(まめまわし)が群棲していたので郡名になったのではないかとしている。昭和四十九年十一月、綾部市民憲章を制定したとき、市の花・木・鳥を選んだが、鳥には「イカル」が選ばれた。郡名をもとにして考えられたものである。

イカルガという郡名をどうして何鹿と書き表したかについても定説がない。『丹波誌』に、「万葉仮名ニテ如何流鹿卜書キ、或ハ如何留我ナド書キタルヲ、国名・郡名ヲ二字ニ定メラレタル時、コレヲ省キ、今、二字ニシタルナリトカヤ。」と記しているのは注目すべき意見である。

イカルカの表記は、伊柯?餓(日本書紀)・以可留我(上宮聖徳法王帝説)・伊可瑠賀(上宮厩戸豊聡耳皇太子伝)・伊加流我(万葉集十三)などの使用例がある。『万葉集』には何をカ・イカ、鹿をカとよんで用いている例もある。もと如何留鹿、あるいは以何留鹿、など表記していたものを、何と鹿を結んでイカルカと読ませたものと考えられる。

和銅六年、国・郡・郷名を二字に制定し、つとめて佳(よ)い字を用いさせ、風土記を編さんさせたが、何鹿の文字もこの時に定めたものであろう。

郡と郡司

郡は郡内の郷数によって、大・上・中・下の四等級に分け、級に応じて大領(長官(かみ))・少領(次官(すけ))主政(判官(じょう))・主帳(主典(さかん))の役人の定員をさだめた。平安初期に何鹿郡は一六郷であったから、大郡として役人は大領・少領各一名と主政・主帳各三名の組織がおかれたものと思われる。丹波の他の郡の郷数は、氷上一七、多紀八、桑田一二、船井一一、天田一〇で、何鹿郡は面積は小さいけれども氷上についでの大郡である。このことは何鹿郡が古代において早く開発され、人口が密になっていたことをしめしている。

「才用同じくは先ず国造をとれ」と「選叙令」にあるように、郡司には、土着の国造や地方豪族であった者が選ばれ任命された。

郡司の政庁の所在地と郡家(ぐうけ)、政庁を郡衙という。郡衙は国衙と同じように方二町の域内に、郡庁・館舎・厨家・正倉などがあり、あわせて四〇棟位の建物があった(注2)といわれるから、貧しい掘立の、ほとんどが床をもたない竪穴の小屋である農民の家に比して、一きわめだった壮大なものであったろう。郡衙においても国衙と同様に租の稲をたくわえ、農民に貸して利稲をとる公出挙を行っていたから、そのための正倉や多くの建物が必要であったのである。

何鹿郡の郡家

何鹿郡の郡家がどこにあったかをきめることはむずかしい問題である。しかし郡家は必ずあったわけであるから、推論するならば、赤国神社を中心とする館附近ではなかろうか。郡家研究によると、郡家の地域内には必ずといってよいほど古い神社・寺院が存在しているという。これは律令政府が国分寺をつくり式内社を指定したように、神社・寺院を領内統治の中心にすえた政策によるものと思われる。赤国神社はもと丹国社とよんでいたという伝承があり、現在も氏子の村の範囲は広く、昔は本郡の一の宮的な古社であったとも考えられる。その東には奈良時代に創建されたという由緒をもつ楞厳寺がある。館町付近は弥生時代以来の集落地であり、以久田野古墳群があり、殿山の前方後円墳や多くの副葬品をもった荒神塚古墳などがあって、古代で最も栄えた地域である。このあたりに国造か、あるいはそれに次ぐような豪族が居住しており、のちに郡司となったものと推論することができる。

時代は下るが天保七年、赤国神社の神主弘川大隅守の書状に、「当地は神代より鎮座の地なり故にいにしヘヤカタの号あり後に字訓により館村(たちむら)というなるか」とあって、館の地名をヤカタと結びつけて説明している。

 

 

第三節条里制と綾中廃寺

条里制

口分田を班給するためには、土地を一定の広さに区切らねばならない。そのために作られた地割りが条里制である。これは土地を縦横の線によって碁盤目のように区切り、条・里・坪の名をつけてよぶ。六町四方の地積を里といい、これを三六に分割して坪とよぶ。だから一坪は一町四方ということになる。この坪に順に番号をつけて、一ノ坪とかよんで場所をしめす。さらに一坪を一〇に分割して、その一つを一反とする。分割のしかたは半折形と長地形とあるが、いずれも一筆は三六〇歩の一反となる。

この地割りの遺構がみられるところは、条里制が実施されていたことをしめすものである。亀岡盆地や柏原盆地では条里地域がはっきり復元されているが、綾部盆地や福知山盆地の豊富地域以外では、まだ明確な復元がなされていない。しかし、実施されていたことは事実であり、福知山市字観音寺の「観音寺文書」に次の記事がある。

文永七年十月廿日中原朝臣寄進伏

在行枝名

坪付田嶋田里廿三坪一段竹田

山田里十五坪五段木梨子

嶋田里廿三坪・山田里十五坪は場所をあらわし、一段と五段は田積をしめしているものであるから、明らかに条里制の地名である。

何鹿郡でも青野・井倉から高津へかけて、断片的ではあるが遺構と思われるものが見られ、犀川筋・八田川筋にも遺構を想像させるものがある。綾部高校の歴史クラブが昭和四十四年に何鹿郡の条里制の研究にとりくみ、その結果を「綾部史談」九三号に報告している。以下その報告を紹介する。

「綾中町の地積図を広げると、正方形に区画された四つの地形(小字名、譲り葉・長塚)を見い出すことができます。私達はこれを条里制の遺構と判断し、この土地を中心に研究を進めて行くことにしました。初めに青野・綾中・井倉新町・井倉・延・岡・大島・高津の地積を復元し、航空写真でその場所を確かめ、条里制に関係しているような小字名を拾ってみました。

駅前東石ケ坪・西石ケ坪

井倉新町六反目

青野北大坪・南大坪・深三田

岡九反・斗代

井倉北三十代・東三十代・西三十代・

土代

大島八反・二反田

高津市ノ坪・西ノ坪・丁ノ坪・二反田

・三反田

延六反目

以上のことで、ほぼ綾部にも条里制がしかれていたことを確信し、条里制研究の権威谷岡武雄教授を訪問したのです。ところが先生は、坪・数字名は丹波地方特有の地名で数多くあるため重要視しないこと。

研究、資料不足のため簡単に結論は下せないことなどを指摘され、地積図には載っていないその地方特有の呼び名、結婚式等では必ず通る道を探すことなどを指導してくださいました。その後、特有の呼び名を老人達に聞いて回りましたが、簡単に見つけられるものでなく、すべて地積図に載っているものばかりで、最後は結局人員不足のため中止しました。条里が最もあらわれているのは井倉新町の護り葉・長塚と綾部高校附近です。一区画が一坪で、綾部高校の敷地は四坪分にあたります。実測の結果は、護り葉のとろこで、一辺が一〇五~一〇八メートル、綾部高校のところで、一〇三~一〇七メートル。一町の長さは一〇八メートルですから、ほば一致します。誤差があるのは間に道路があるからです。図上に線を引くことは簡単ですが、結論を出すのはまだ早いようです。」

このように報告し、「狭い地形、由良川の氾濫、また政治的経済的に、青野から大島・高津に至るまで整然と統一され条里を敷くことができたか。」と疑問を出している。高津にも条里の遺構が見られるけれども、全体像として復元するところまで研究が進んでいない。綾部の条里制の研究は今後の課題である。

綾中廃寺

綾中町小字堂ノ元から、布目瓦や大きな礎石が発見され、文献には全く記載されていない寺であることから、綾中廃寺と名付けられている。この寺跡が最初に確認されたのは、昭和八年一月、「昔からこの地に七堂伽藍があった。」という伝承をもとに実地調査した村島渚・村上佑二の両氏によってである。この結果を村島氏は、同年八月に発刊された同氏編著の『三丹蚕業郷土史』に発表した。この本には、八葉複弁の軒丸瓦、唐草文の軒瓦、布目の平瓦片が写真として報告されているが、残念ながら現在その瓦の所在はわからない。村島民は説明を加えて、「京都線踏切西方二〇〇メートルばかりの地点に、中央に柱受けの円座を刻んだ方一間ばかりの大石があったということは、古老の記憶に新たなるところであるが、これこそは往昔綾部の空に聳えていた塔の心柱の礎石であったことは疑う余地もない。」と述べている。

その後、村上氏は昭和三十三年六月発刊の『綾部町史』の中で、礎石や伝承についてさらに詳細に報告している。『綾部町史』が出てから後も軒丸瓦や平瓦、あるいは風鐸の風招が出土しており、現在では、軒丸瓦三点、軒平瓦一点、風鐸の風招一点、須恵器三点と、平瓦・丸瓦の破片多数が発見されている。これら出土品についてここでは概略を述べ、詳細は各説編の説明にゆずりたい。

蓮華文軒丸瓦は、単弁八葉のもの一点と、複弁八葉のもの二点がある。単弁のものは山田寺式のもので七世紀末のものと考えられる。複弁のものは二点とも同じ型でつくられており、昭和八年に採集されたものも同型である。この瓦は藤原宮式とよばれるもので、八世紀はじめのころの様式と考えてよい。(口絵参照)軒平瓦には唐草文があり、文様やつくりからみて八世紀はじめのころのものと思われ、複弁蓮華文の軒丸瓦と組み合うものと考えられる。風鐸は堂塔の軒先をかざるもので、その中につるされた舌を風によって動かすものが風招である。出土したのは銅製鋳造の完形品で、幅が一四・七センチメートルある。この風招の大きさから考えて、風鐸は相当大きいものであったと想像される。

これらの出土品とともに注目すべきことは、小字堂ノ元を中心に、焼けた花崗岩製の礎石列があったことである。巨石の中央に穴をもった心礎と思われるものや、「真如院」と陰刻された石も発見されている。この廃寺の規模や年代などを追求するためには、小字堂ノ元と、花ノ木・庵ノ上など、広範囲にわたって詳しい調査をする必要がある。

出土古瓦の様式がしめす八世紀前後という時期は、都が藤原京から平城京へ移行するころであり、地方でも寺院の造立が相ついだ時代である。この寺院が、伝承にあるような七堂伽藍を備えていたかどうかは明らかでない。『出雲風土記』の研究によると、出雲では十一か寺のうち八か寺が金堂、三か寺は塔のみであって、現にそれらに比定される寺院址の土地は、いずれも七堂伽藍が建てられる面積がないということである。(注3)このことは地方の小規模寺院を考える上に大きな参考になる。

綾中廃寺の造立は古墳などの状況からみて、郡司クラスの手になるものではなかろうか。この郡司クラスが古墳時代からの在地有力豪族であったか、畿内から移動してきた新興の有力者であったか定かではない。ただ、いわゆる「漢部系」の人が綾中付近に流入してきたことや、古瓦文様に畿内直結というべき藤原宮式を含むことから、後者の可能性を否定することはできないであろう。古代寺院は仏教文化の伝播をしめすだけでなく、当時の政治・文化・学問の中心であり、国政め中でも重点がおかれていた。とりわけ奈良時代では、瓦葺きの建物は、地方にあっては寺院に限られていたといっても過言ではなく、草や板葺の集落内でひときわめだち、人々の目を圧倒したことであろう。綾中のような広々とした位置に塔を建立したことは、支配者の権威を象徴するものであったと思われる。

 

西原窯趾

昭和五十年一月、西原町釈丈ケ岳の道路傍で窯趾が発見され、瓦片・須恵器片が採取された。この窯は半地下式の登り窯であって、須恵器と瓦を焼いており、遺物の年代は大ざっぱにいえば、奈良時代末ごろから平安時代中ごろまでの範囲に含まれる。この窯で焼いた瓦がどこで使用されていたかについては検討を要するが、綾中廃寺が仮りに平安時代まで法灯を保っていたとすれば、ここの瓦を使用した可能性も否定できないこととなる。(注4)

何鹿郡には貞観五年(八六三)に仏南寺の名もあり、仏南寺が平安時代に瓦を葺いた建物であったとすれば、ここに使用された可能性もあり、また味方町の井上寺という地名のところに古寺があったとすれば、ここにも使用の可能性はある。今後の研究に待つところである。

(注1)奈良国立文化財研究所報告による

(注2)「郡衙の境域について」足利健亮大阪府立大学歴史研究十一号

(注3)「出雲風土記所載の新造院とその造立者」近藤正昭和三・七日本歴史考古学論叢第二

(注4)綾中廃寺・西原窯跡の項は府立丹後郷土資料館杉原和雄技師の報告による

 

 

 

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