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更新日:2019年6月25日

原始古代編(第3章)

古代国家の成立と郷土

第一節:大和朝廷と古代丹波

大和朝廷の成立

大和を中心に巨大な前方後円墳がつくられはじめた四世紀初頭から、六、七世紀までの古墳時代は、そのまま大和政権による国土統一と古代国家成立の時代であった。

三世紀の中ごろのことを記した有名な『魏志倭人伝』には、「倭はもと百余国漢の時朝見する者あり今使訳通ずる所三十国」とあり、倭の中に小国家が分立していて、それがしだいに統合されていくようすを述べている。そして二世紀の後半に大乱のあったことを伝え、「倭国乱れ相攻伐すること歴年乃ち共に一女子を立てて王となす名を卑弥呼と曰う」とある。こうして卑弥呼を王とする邪馬台国が出現してくる。

三世紀末から四世紀のはじめころには、大和を中心に今までにない強い権力をもった国家があらわれてきた。この大和の政権が、『古事記』『日本書紀』にみえる崇神・垂仁朝にあたると考えられている。そしてこのころから、大王の権威を象徴する巨大な前方後円墳が大和を中心に現われてくる。大和朝廷に服属した地方の首長たちも、朝廷の承認と技術指導を受けて各地に古墳をつくりはじめた。

四世紀には国土はほば統一され、さらに朝鮮半島に進出してそこに勢力を植えつけ、また、先進の文化技術をとり入れて大和政権の力を強めていった。河内平野にみられる応神・仁徳天皇陵の巨大な前方後円墳は、五世紀における大和朝廷の権力の強大さをしめしている。朝廷では自ら開拓したり、服従した地方豪族の土地をさきとったりして屯倉(みやけ)という直轄領をつくり、経済的な力を増していった。こうして大和朝廷による古代国家が成立した。

丹波の国名

丹波国は山陰道八か国の最初の国である。古文献には、「旦波」-『古事記』「丹波」-『日本書紀』とあるほか、但波・谿羽などと記されている。『古事記伝』に「旦波さて此ノ名は多邇波(タニハ)なるを後ノ世にタンバと唱フるは字音に索れて訛れるものなり邇をンと撥るから音便に波をも濁るなり」と説明しているように、「タニハ」が「タンバ」となったものであろう。「タニハ」の意味についてはいろいろの説がなされている。『諸国名義考』は、「名義は田庭なるべし度会の外宮の豊受大神此国にましまして内宮の皇大御神の朝夕の大御食奉り給う故しかおいし名なるべし」としており、『地名辞書』にも、「名義は田庭の謂なりと言ふ」としている。

『日本書紀』天武天皇五年の条に、新嘗祭の悠紀田・主基田が定められ、丹波が主基田の国に卜定されていることや、元伊勢の信仰が根強く伝えられていることなど、宮廷の儀礼と深く結びついた「田庭」ということからきたものと考えられる。

丹波の平定

丹波の地域が大和政権に服属するようになった経緯については、記紀によるしか手がかりはない。『古事記』によれば崇神天皇の条に、「日子坐の王をば旦波(たにはの)国に遣して玖賀耳之御笠を殺さしめたまひき」とあり、『日本書紀』には崇神天皇十年九月、「大彦命を以て北陸に遣し武渟川別(たけぬなかわわけ)を東海に遣し吉備津彦を西海に遣し丹波道主命を丹波に遺したまふ因りて詔して日く若し教(のり)を受けざる者あらば乃ち兵を挙げて伐て」とある。いわゆる四道将軍の派遣記事である。記紀によって丹波へ遣わされた人名が異なっているが、日子坐王の子が丹波道主命であるから、父子並んで丹波方面の征服にあたったものと考えられる。

玖賀耳(くがみみ)之御笠(みかさ)というのはどんな人物か、またどこに住んでいたのかわからない。『日本書紀』の仁徳天皇の条に桑田の玖賀媛の説話があるので、桑田郡に住んでいたものともいわれるが、『丹後風土記残欠本』に、「古老伝曰当リ二于御間城入彦五十瓊殖天皇(祟神天皇)之御代一当国青葉山中有リ二土蜘(つちぐも)一曰二陸(くが)耳御笠一者而其状賊(そこなう)二人民一故日子坐王奉レ勅而伐レ之」とあって、青葉山に住んでいたことになっている。ともかく丹波地方に玖賀耳之御笠に代表されるような大和朝廷に服従しない首長がいて、それが大和朝廷の遣わした将軍によって平定されたことが推察されるところである。

このころの丹波はのちの丹後・但馬を含む地域であり、記紀の記事が東海・北陸という広い地域の表現でなく、丹波と限ってあるところに、丹波という地域の重要性が考えられる。のちに丹波道主命父子の子孫と称する丹波氏族が丹波・但馬で栄えており、丹後には彦坐王をまつる神社も多いから、父子は丹波を平定してそのままこの地に土着したものと思われる。

綾部の伝承

綾部市内には日子坐王・丹波道主命に関係のある伝承をもつ神社が二つある。その一つは上杉町の八坂神社である。祭神は素戔鳴尊・大己貴尊・少彦名命・受持之神で、昔は飯宮(はんのみや)大明神と称した。社伝によると崇神天皇の十年秋、丹波国青葉山に玖賀耳という強賊がいて良民を苦しめるので、勅命を受けた日子坐王・丹波道主命が軍をひきいてきたところ、丹波国麻多之東において毒蛇にかまれ進むことができなくなった。時に天より声があったので、素戔鳴尊ほか三神をまつったところ験があって病がなおり、首尾よく賊を平げることができた。帰途、この地に素戔鳴尊と諸神をまつったのに由来するというのである。(飯宮由来記)前に記した『丹後風土記』の記事と符合する伝説である。八坂神社には、「永久五酉稔(一一一七)三月総社麻多波牟宮神」の銘のある神鏡が伝わっていたから、平安時代には八田郷の総社であったと思われる。

もう一つは広瀬町の伊也神社である。ここには、「崇神天皇の御代丹波道主命本郡に来り甲ケ峯の麓に宮を築き天照大神素戔鳴尊月読尊の三神を崇敬し神社にまつった」という伝承がある。

これらの伝承からみて、この地方には古くから丹波道主命父子による丹波の平定が信じられていたと考えられる。

第二節:丹波の氏族と国県制

丹波氏族

記紀の内容に、天皇家と丹波の豪族との間に婚姻関係の記事が多いことは注目されるところである。第九代開化天皇の妃竹野(たかの)媛は、丹波の大県主(あがたぬし)由碁理(ゆごり)の女(むすめ)である。大県主は大和の外には丹波と河内の志幾大県主とがあるだけであり、皇妃を出しているのは多くは大和の県主であって、他には丹波の大県主しかない。のちに丹波の国名ができるが、県主の名がそのまま国名と一致するのは丹波と対馬しかない(上田正昭『大王の世紀』)というから、丹波の大県主の勢力が格別に大きかったことを物語っている。

開化天皇の子、日子坐王は竹野媛の庶子にあたり、その妃の息長水依比売(おきながみすよりひめ)は但馬の出石君家の出であり、丹波道主命の妃は丹波の河上摩須郎女(かわかみのますいらつめ)である。日子坐王の女狭穂比売(さほひめ)は垂仁天皇の皇后となっており、ついで狭穂比売の遺言によって丹波道主命の女、日葉酢(ひはす)姫が垂仁天皇の皇后となり、景行天皇を生んでいる。

このように日子坐王を祖とする一族は大和朝廷と深い姻戚関係をもち、丹波で勢力を伸ばしていたと思われる。この一族を丹波氏族といい、この流れは丹波・丹後・但馬にわたって大きい勢力をもっていたといわれる。(太田亮『姓氏家系大辞典』)『三代実録』に出てくる何鹿郡の人、刑部首(おびと)夏継も丹波氏族である。

丹波直(あたい)

『古事記』によると、成務天皇の条に「大国小国の国造を定め給う」とあり、そのあと丹波国造に任じられたのは丹波直大倉岐命である。大倉岐命は火明命より出で、(国造本妃)天火明命の一二世の孫、建稲種命のあと神服連・海部(あまべ)直・丹波国造・但馬国造らの祖となった。(天孫本紀)火明命を祖とする尾張氏族はもと大和の葛城高尾張の豪族で、尾張に移って熱田神宮を奉斎し、すこぶる勢力をもった氏族である。火明命の四世の孫、天忍人命が葛城出石姫をめとって丹波の勢力と結んだことが、丹波国造家になった理由と思われる。葛城は出石を本拠とする天日槍族の大和における移住地であり、出石姫は天日槍を祖とする出石族の出身と思われるからである。この丹波国造の氏を丹波直という。

丹波直が丹後の丹波郡(中郡)を本拠としていたと思われることは、「延暦二年(七八三)丹後国丹波郡人正六位上丹波直真養を国造に任ず」と『続日本紀』にあることでわかる。天平九年の『但馬国正税帳』に、「丹波国小毅无位丹波直足島」の名があり、また「延暦四年(七八五)正月丹波国天田郡大領従六位下丹波直広麻呂に従五位下を授く」(続日本紀)貞観八年(八六六)閏三月、「丹波国丹波郡人左近将監従六位上丹波直副茂本居を改めて山城国愛宕郡に貫附す」(三代実録)などがあって、丹波直が郡司として任じられており、丹波・丹後・但馬で勢力をもっていたことが知られる。

県主(あがたぬし)

五世紀の応神朝のころには、氏(うじ)と姓(かばね)による身分支配の秩序が確立されていたといわれる。豪族は朝廷より氏を認められ、姓を与えられて政治的身分が定められた。この氏と姓をもとにした政治秩序を氏姓制度といい、大和政権の支配体系となったものである。

これとともに大和朝廷の地方支配の組織となったものが国造と県主である。県制は国造制より古い制度で、大和政権が成立するとき、最も早く服属した地方共同体の首長を県主とし、君(きみ)・連(むらじ)・直(あたい)・首(おびと)などの姓(かばね)を与えて支配したものである。県主は宗教的な色彩が強く、朝廷との関係も、祭祀と貢納によるものであった。県は大和を中心に西日本に広く分布し、四、五世紀において大和朝廷の重要な支配組識であった。

国造(くにのみやつこ)

五世紀後半から六世紀はじめへかけて、朝鮮半島における経営の失敗などにより大和朝廷の支配力がゆらいできた。これをたてなおすために、朝廷は中央政庁の整備をはかるとともに国造制をしいて、地方の豪族をこれに任じ支配を強めた。国造は一郡から一国におよぶ県主より広い領域を支配する首長であり、地方で最も有力な豪族であって、姓を与えられて服属した。その服属の関係も県主のように祭祀的でなく、強い権力的な支配によるものといわれている。

国造は地方土着の豪族であり、大化改新後に国郡制がしかれたとき、郡司には国造家が優先して任じられた。さきに記したように、丹波では丹波直家が璧旭を世襲していたものと思われ、のちに郡司に任じられた天田郡大領丹波直広麻呂の名が出ている。何鹿郡については国造・県主や郡司の名は史書に現れてこないが、いずれも存在していたはずである。以久田野や高槻の前方後円墳、あるいは多田の方墳などは五世紀の築造と考えられているが、これらは国造、あるいは県主を葬ったものとも考えられる。

第三節:部民の村々

部民制

大和政権を支えたものに部民制度がある。五世紀の中ごろになると、大和政権は河内平野の大規模な開拓事業や、巨大な前方後円墳の築造、あるいは朝鮮経営をめぐる軍事力拡充などのために、多くの労働力や技術者を支配掌握することが必要となり、そのため部民制をつくったといわれている。部はトモともよばれ、土師部・玉造部・鍛治部などがあり、その首長を伴造(とものみやつこ)といった。

また朝鮮半島から渡来した技術者たちも部として編成され、韓鍛治部(からかぬちべ)や服部(はとりべ)・錦織部などとして朝廷の支配下におかれた。農民たちの支配も屯倉を通じて田部という形をとっていった。このようにして部民制は古代国家の全ての生産のための組織となっていった。

朝廷は皇族たちのために名代(なしろ)・子代の部民をつくった。豪族もまた私有民をもち生産に従わせたが、それは豪族の名をとって大伴部・物部・蘇我部などとよばれた。これを部曲(かきべ)とよぶ。

この部民制が全面的に廃止されるのは大化改新であるが、手工業者は品部(ともべ)として残され、律令国家の体制に組み入れられる者が多かった。綾部市内にも、部民によって成立したと考えられる村があるのでそれをあげてみよう。

漢部(あやべ)

漢部は古代国家成立のあと、朝鮮半島から渡来した漢民族が漢氏(あやうじ)を与えられ、その漢氏が所有しあるいは支配した部(べ)である。丹波のほか甲斐・美濃・播磨・肥前などに分布し、帰化人の子孫もあったであろうが、多くは日本農民であったと考えられている。

漢民族の渡来は五世紀のはじめころ、大和朝廷の勢力が朝鮮半島へ進出したのを機に急激に増大した。『書紀』に、漢氏の祖阿知使主(あちのおみ)とその子都加使主が十七県の民を率いて渡来したとあり、これらは倭漢氏(やまとあやうじ)を称し、大和国高市郡檜前(ひのくま)を中心にして広まった。その多くは朝廷の政治組織に入れられ、渡来人の技術と労働力が古代国家の発展に重要な役割を果していた。

五世紀後半の雄略朝のころにもまた渡来人は多くなり、今来(いまき)の才伎(てひと)とよばれた。それらの中に百済から来た漢陶部(あやすえべ)や錦部(にしごりべ)、呉(くれ)(高勾麗)からきた漢織(あやはとり)・呉織(くれはとり)・衣縫の兄媛・弟媛などがあり、大和や河内に居住地を与えられて畿内を中心に発展していった。(上田正昭『帰化人』)雄略天皇十六年、各地に分散する漢部を集めてその伴造を定め、直の姓を与えて統轄させたというから、こうして集められた漢部が住んだ地が漢部と呼ばれるようになった。

郷土綾部は、江戸時代のはじめのころまでは漢部と記していた。古代において由良川の氾らん原には、自生の桑が繁茂して養蚕の適地であったと思われるから、漢部は綾絹の生産地であったのであろう。この推定は古くからあり、明治以後に綾部が養蚕製糸業の中心となっていったことと関係させて、その歴史的遠因と考えられてきたところである。

八田(部)

『倭名抄』に記された何鹿郡八田郷は御名代部から出たものである。

八田部は仁徳天皇のとき、「八田若郎女(やたわかいらつめ)の御名代部と為て八田部を定めたまひき」(古事記)とあるもので、八田若郎女は応神天皇の皇女であり仁徳天皇の皇后である。『日本書紀』には矢田(やた)ノ皇女(ひめみこ)と出ている。

御名代の八田部が国・郡・郷に整理されたとき八田郷となったもので、例として、

  • 矢田部(三河)御名代部:幡豆郡八田郷(和名抄也太)
  • 矢田部(加賀)御名代部:江沼郡八田郷(和名抄也多)
  • 矢田部(丹後)御名代部:与謝郡矢田部神社(太田亮『姓氏家系辞書』)

などがある。東光院の仁平二年(一一五二)大般若写経の奥書に、「丹波国何鹿郡矢田郷東中村」とあるのをみても、八田はハタでなくヤタであることがわかる。八田郷の高槻には綾部市内で最も巨大な前方後円墳があり、他にも多くの古墳群があるので、御名代部があったと推定できるところである。

物部

『倭名抄』に物部郷とあるのがこれに当る。物部は、軍事刑罰をつかさどった物部氏の部民として全国各地におかれたもので、大和には物部大連がおり、地方の物部連や首などが部民を率いてその地域の軍事刑罰をつかさどっていたものであろう。丹波にも物部首がいたことは一〇世紀の半ばに、「丹波国擬大領右近物部首惟範云々」(東大寺文書)とあるのでわかる。太田亮『姓氏家系辞書』には、「物部(丹波)職業的部何鹿郡に物部郷船井郡に物部神社ありこの部民の住居せし地也」とある。

何鹿郡物部に式内社須波伎部神社があるが、これは物部の氏神であったと考えられる。貞観十一年(八六九)「授二丹波国正六位上物部箐掃(すはき)神社従五位下一」(三代実録)とあるのは、箐掃物部氏が由緒と実力を持った有力な氏族であったからと思われる。現在須波伎部神社付近から白道路町へかけて四、五〇基の古墳が群集している中に前方後円墳があることも、物部氏と関係して考えられる。

私部(きさいちべ)

私市町とよぶ町名はもと私部から出た地名である。

私部は御名代部として置かれた品部で、五世紀のはじめ允恭天皇が、皇后忍坂大中姫(おさかのおおなかつひめ)のため御名代部として刑部(おさかべ)をおいたのがはじめである。六世紀の後半からは固有名の品部を廃し、皇后の御名代部を私部と表現するようになった。『日本書紀』の敏達天皇六年(五七七)に、「詔(みことのり)して日祀部(ひまつりべ)私部を置く」とあるのがその初見といわれている。この私部はそのころと思われるが、何皇后の御名代かはわからない。私市に式内社佐須我神社があることや、佐賀小学校の運動場付近に後期古墳があり、その一つの奉安塚古墳から、金色にかがやく甲胃・馬具類や、仿製鏡・装身具・須恵器などが多く出土したことは、私市に有力な首長の存在したことを物語っている。

唐部(からべ)

今田町に唐部がある。唐部とは唐人によってつくられた部民の集落の名である。太田亮は、『姓氏家系辞書』の「唐人」の部で唐の帰化族であるとし、斉明天皇の六年(六六〇)十月、「百済鬼室福信遣二佐平貴智等一来二献唐俘一百余人一今美濃ノ不破片県二郡の唐人也」(日本書紀)と載せている。また同紀には或本(あるふみ)に曰くとして「同俘を近江国墾田に居らしむ」とあげているから、美濃・近江のちがいはあるが、百済の鬼室福信が唐の俘虜百余人をわが国に送って、唐の侵略に対しわが国の救援を求めてきたことが記されている。あるいはこの唐人の一部を当地に送り、この付近一帯を占めていた屯倉(三宅)の開拓農耕に使役したのかも知れない。いま唐部の付近に一〇基におよぶ高谷古墳群があるが、時代的には古墳時代後期に属し、唐部成立期に合っていると思われる。

三宅(屯倉)

豊里町にある小字名である。屯倉というのは大和朝廷の直轄領のことで、大和河内の開発が行われるにつれて多く設置された。これらは帰化人の技術や農民の労働力をその首長を通じて動員し、大和朝廷の支配下に組み入れた朝廷の直轄地である。

こうした形で六世紀に入ってからは屯倉は急に増え、一二か国二六の屯倉が同時に設けられ、丹波もこの中に入っている。そののち七世紀・八世紀とつづいて屯倉の経営には努力が払われ、屯倉の開発や部民・田部の編成には帰化人や他の部民を移動再編成するなど、大々的に屯倉の強化策がとられたようである。

何鹿郡の屯倉(三宅)の成立期を明らかにする資料はないが、三宅には荒神塚をはじめ六、七世紀に造られた古墳が多数あるから、六世紀ごろに成立したと推定することができる。

草壁(日下部)

睦寄(むつより)町の小字名である。草壁は御名代部からきた地名である。『古事記』に、仁徳天皇の代、「若日下部王(わかくさかべのみこ)の御名代として若日下部を定めたまひき」とあり、これが草壁の成立した記録である。

当地の草壁に新宮神社があり、その由緒として社記に、「往古ヨリ言伝フル所ハ朱鳥年中草創ニシテ草壁皇子ヲ勧請シ草壁神社卜号ス則境内二陵卜覚シキ塚アリ依之草壁村卜称ス」と記されている。草壁皇子は天武天皇の皇子であり、皇太子となった人である。社伝は付会されているところがあるようだが、この村が日下部であったからそういう伝承が生まれたものと考えられる。

弓削(ゆげ)(部)

五津合町のもと弓削村である。弓削の名は弓削部からきた地名であろう。弓削部は弓を作る職業的部であって、『日本書紀』に垂仁天皇の代、、「是の時楯部(たてぬいべ)倭文部(しどりべ)神弓削部(かむゆげべ)神矢作部(かむやはぎべ)…并せて十箇の品部(とものみやつこ)をもって五十瓊敷皇子(いにしきのみこ)に賜ふ」と初めて弓削部が記録されている。弓削部の本拠は河内国らしく、全国各地にも弓削部を置いている。丹波では桑田郡に弓削郷があり、『続日本紀』に、養老八年(七二二)丹波国弓削部名麻呂の名がみえている。当地の弓削も、丹波の弓削部との関係があって地名となったものであろう。

日置(へき)(部)

八津合町に日置・日置村中の小字がある。五津合町にも日置殿があり、町村制施行までは日置殿村であった。

日置は、日置部から出た名称で職業は明らかではないが、伴信友は、「日は戸(へ)なり戸数を記しおく地方政治に関係ある品部か」といっている。恐らく租税徴収のための戸数調査を任務とする部であろう。(太田亮)この部は近畿・出雲に多く、丹波には多紀郡にも日置郷があり、東寺承平三年(九三三)文書に、「丹波国多紀郡国老日置公」と出ており、丹後には与謝郡に日置郷、但馬気多郡に日置郷と日置神社がある。各国々に日置郷があるところをみると、何鹿郡にも日置部の小規模のものが置かれていたのではなかろうか。

お問い合わせ

教育委員会教育部社会教育課

京都府綾部市里町久田21-20

電話番号:0773-43-1366(直通)

ファクス:0773-43-2134

Eメール:info@ayabe-museum.org

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