住んでよかった… ゆったりやすらぎの田園都市・綾部

  • サイトマップ
  • 組織案内
  • 市へのメール
  • 携帯サイト
  • Foreign Language
文字サイズ
拡大
縮小
色合い
標準
青地に黄色
黄色地に黒
黒地に黄色

ホーム > 教育・文化・スポーツ > 資料館 > 綾部市史 > 原始古代編(第2章)

ここから本文です。

更新日:2019年6月25日

原始古代編(第2章)

古墳時代の郷土

第一節:前期古墳

弥生時代の稲作を中心とする農業が、金属製農耕具の使用によって飛躍的に発達し、生産力が高まるにつれて、社会構造も共同体社会からしだいに階級社会へと変っていった。「むら」の支配者たちは、その勢力をしめすために大きい墳墓を作りはじめたが、まだこの時代には、民衆墓とあまり差はなかった。

三世紀の末、ないし四世紀のはじめごろから、大和政権によって国土の統一が進められ、そのころから大和に巨大な墳丘をもった古墳が出現してきた。そしてこの古墳は、大王家や豪族によって引きつづいて築造され、形や副葬品などにいろいろな変化はあるが、七世紀中ごろの大化改新による新しい律令体制が整えられる時期まで造られた。この間の約四〇〇年間を古墳時代とよんでいる。古墳というのは、高く土を盛り上げた古代の墓という意味である。

古墳時代はその内容からみて、前期・中期・後期の三期に区分する方法が一般的にとられている。前期の古墳は、四世紀に築造された古墳で、その特色は小高い丘陵項部の自然丘を加工して作られ、前方後円墳がその大部分をしめている。大王級の古墳は、その長径が二〇〇~三〇〇メートル、地方豪族の族長級で、一〇〇メートル前後のものが標準的な規模のようである。埋葬は墳丘の中央部に竪穴式石室を設けて、割竹形の木棺を納めているのが普通である。副葬品も白銅鏡や勾玉・管玉と腕輪類・鉄剣・銅鏃など、宝器的・呪術的な性格のものが多く、被葬者は司祭者的な族長としての性格が非常に強く感じられるのである。

前期古墳の代表的なものは、畿内では景行天皇陵・崇神天皇陵(天理市)、丹後地域では網野銚子山古墳(網野町)、神明山古墳(丹後町)、蛭子山古墳(加悦町)などであって、いずれも前方後円墳である。

丹後地方には、こうした四世紀に築造された大形の前方後円墳があるが、中丹地域にはそれは発見されていない。中丹地域における前期古墳は、こうした権力的な威圧を感じさせる大古墳とは異なり、階級社会の権威を感じさせない素朴な古墳として出現する。

1.成山古墳

成山古墳群は、館町弥生遺跡の西方約一キロメートル、綾部市小西町中山にあって、平地からの高さ約三〇メートルの丘陵上にある三基の古墳群である。一号墳は現状保存、二、三号墳の二基は昭和四十年五月に、府教委文化財保護課によって発掘調査が行われた。

二号墳は直径二〇メートル、高さ二・五メートルの円墳で、南側には幅四メートル、深さ〇・三メートルの周濠の痕跡がみられた。主体部は表面下約七〇センチメートルのところにある土壙墓で、割竹形の木棺が埋蔵されており、棺中央から鏡一面と、青色ガラス小玉が数十個発見された。鏡は直径九・五センチメートルの白銅鏡で、舶載鏡とみられ、わが国でも出土例が数個しかない飛禽文鏡である。

三号墳は一辺約二〇メートルの方墳である。高さ約一・五メートルで各辺は方位線と一致している。主体部は主軸をほぼ東西にもつ土壙墓で、長さ四メートル・幅〇・六メートルの組み合わせ式木棺が使用されていたと推定されている、副葬品は棺底部に土師器の細片が検出されたのみであった。

この主体部の調査を終えて棺の東西にトレンチを拡げたところ、棺の西側に接して、棺底より約二〇センチメートル下の部分に土師器の破片が発見された。土師器の周辺に灰白色粘土で囲められた礫層があり、さきに発見された三号墳主体部とは別個の施設であると思われた。

調査の結果、東西一・五メートル、南北一・四メートルの土壙の中央に、砂利を厚さ一〇センチメートル前後にわたって敷きつめ、大型の壺形土器四個を置き、周囲を灰白色の粘土で固めた後、壺の破片で上部を覆い、さらに礫と灰白色粘土で周囲を固めた遺構であった。この四個の大型壺形土器は次の二形式に分けられる。

  1. 高さ六〇、口縁直径三〇、胴径四一(単位センチメートル):口縁部がいちじるしく外反し、外側に竹管文があり、底部には焼成前に孔があけられていて、平底である。
  2. 高さ四九、口縁直径三五、胴径四二(単位センチメートル):胴部が球形であるほかは1.と同じである。

この成山三号墳下部遺構から出土した壺形土器は、その外観や特徴において弥生式土器の製作技術が器面にあふれていることを感じさせる。これとほぼ同形式の壺形土器が、桜井市茶臼山古墳(四世紀)から出土しているが、ともに底部に焼成前より穿孔されていることは、壺としての役割を否定したものであり、埴輪円筒の祖形と考える読もある。こうしたことから考えると、この成山三号墳下部遺構は四世紀には築造されていたものと思われる。

このことは、中丹地方で現在発見されている古墳の遺構としては最も古いものであり、この地方における弥生時代から古墳時代への、過渡的な埋葬方法をしめすものと考えることができよう。

2.紫水が丘古墳

綾部市味方町にあった紫水が丘古墳は、詳細な調査がなされないまま破壊されたため、出土品や遺構のデータは不十分であるが、組み合わせ式の箱式石棺を埋納し、小型の勾玉や銅鏃が出土したと伝えられており、築造年代は四世紀後半と推定できる。上図は発見者による見取図である。

3.宝蔵山古墳

福知山市字前田の宝蔵山古墳群には四基の古墳があって、三基は円墳、一基は方墳である。円墳はいずれも木棺直葬の土壙墓であったが、棺外に割って埋葬されていた土器は弥生式土器の形態を備えたものであった。方墳の埋葬主体部は、木棺直葬の土壙墓一・壺棺三・土製円筒棺一・箱式石棺一、合計六基で、棺に用いられた壺形土器は、山陰地方の古墳時代前期の土器の特徴をもっている。以上のことから、宝蔵山古墳群築造の年代は四世紀にさかのぼるものと推定されている。

4.中丹地域前期古墳の特色

このように中丹地域で見られる前期古墳は、その規模や副葬品において、丹後地域の前期古墳とは異った特徴をもっている。すなわち、丹後地域は大きな前方後円墳を中心として発達したのに対し、中丹地域は比較的小規模な方墳を主体としている。

このことは、弥生時代の遺跡が初期の段階から日本海沿岸の各地に分布していることからみて、稲作農耕を中心として繁栄をほこった有力な豪族がおり、大陸文化受容の門戸をなしていたと考えられる。大和朝廷が国土統一をすすめる段階では、このような豪族を服属させることが重要であり、その政策のあらわれがこの大きな前方後円墳になったと考えられる。それにひきかえ、中丹地域の弥生時代の遺跡はやや時期が遅れて発達し、その規模も小さいものである。このことは、中丹地域においては弥生時代はもとより前期古墳時代においても、その文化は日本海沿岸の丹後地域からもたらされたものと考えることができる。丹後地域において、大和朝廷の影響下に大きな前方後円墳が築かれていたころ、中丹地域では弥生時代の墳墓を踏襲した小規模な方墳が築造されるようになり、古墳築造の仲間入りをしたものであろう。

第二節:中期古墳―前方後円墳と方墳

1.大古墳の世紀

五世紀中ごろになると、古墳は平野部にも築造されるようになり、墳丘は整備化され大型化し、内部構造や副葬品にも権力の表示が認められ、周濠をめぐらす巨大なものが多くなってくる。代表的なものとして応神陵・仁徳陵(堺市)があり、仁徳陵は全長二四五メートル、高さ三〇メートルで、墳墓としては世界一の構築物である。このように古墳の築造規模が、最大となった時期が古墳時代の中期、すなわち大古墳の世紀である。

注目すべきことは副葬品の変化であって、前期古墳にみられた宝器的な器物が少なくなり、かわって金銅製の耳飾りなどの装身具・鉄製の甲胃・刀剣・および乗馬の風習をしめす馬具・鉄製農工具など、宗教的な色彩がうすれて、権力や財力を誇示する実用器具類が副葬されるようになった。

また土器製作には格段の変化がみられ、前代の土師器の外に新たに須恵器の副葬が加わった。須恵器の伝来については、雄略天皇七年(四六三)、新漢陶部高貴が多くの工人とともに来朝し、陶部がこのときに創設されたと伝えられているから、五世紀中ごろにその製法が伝来したとみてよい。この須恵器の形の変遷が古墳の築造年代を決定する有力な資料となっている。この時期の豪族は、古墳の副葬品で見る限り、前期古墳にみられる司祭者的支配者としての性格から脱皮し、鉄製農耕(工)具の飛躍的な進歩によってそれを独占し、いちじるしく農業生産を拡大して経済力を高め、軍事的・経済的支配者としての地位を確立したものである。

このころになると、綾部地域においても本格的な古墳の築造期を迎えることになる。

2.綾部の中期古墳

(イ)前方後円墳
  • 茶臼山古墳:(高槻町)(長さ六〇メートル、高さ四・五メートル)墳頂部から出土した須恵器片や墳形からみて、完存する確実な五世紀の古墳である。
  • 以久田野七八号墳:(長さ三一・六メートル、高さ五・一メートル)周囲から埴輪円筒片を出土しており、五世紀末の古墳である。
  • 沢三号墳:(長さ四〇メートル)大正初年に後円部の一部が崩され、そこから三環鈴・鎧の一部などが出土した。三環鈴は鈴杏葉以前に用いられた馬具と考えられており、五世紀の古墳としてまちがいはない。

大畠町からも直径一〇センチメートルの漢式鏡二面(四獣鏡・珠文鏡)が出土しているが、この古墳も中期に編年すべき古墳である。(口絵参照)

(ロ)方墳

中期の古墳の中で、特に有名なのは多田町の聖(ひじり)塚・菖蒲(あやめ)塚である。聖塚・菖蒲塚古墳は多田町天満宮の北方にある二基の方墳であって、両古墳の間は約一二〇メートルはなれており、大きい方を聖塚、小さい方を菖蒲塚と呼んでいる。

聖塚は底辺約四八メートル、上段辺約二三メートル、高さ六・六メートルの二段築成の方墳であって、全面が葺石で覆われている。方位はその対角線が方位線と一致している。上段の裾部には埴輪円筒がめぐらされていたようで、その破片が所どころに散見できる。それらの埴輪円筒は、以久田野七八号墳や、同二〇号墳に見られるものより、形も小さく焼成も悪い。

菖蒲塚は形は聖塚と同形であるが、その規模は聖塚の約半分で、底辺二五メートル、上段辺一二メートル、高さ五メートルで埴輪円筒がめぐらされており、東南部に造り出しをもっている。内部構造の詳細は不明であるが、表土下約二メートルの位置に、砥石のような小割石をもって築いた構造物があったと報告されており、あるいは竪穴石室であったか、または一種の粘土槨であったと推定される。

出土遺物は、聖塚からは明治二十四年に鏡一面・勾玉一個・ガラス玉三〇数個、および兜・鎧・鉾・直刀・剣・銑鏃などの破片が出土したといわれている。

鏡は直径一三・五センチメートル、厚さ四・五ミリメートルの仿製神獣鏡であり、勾玉は碧玉製で長さ四・三センチメートルである。兜は板金を矧(は)ぎ合わせて作られており、鎧は破損しているが短甲かと思われる。直刀は剣と合わせて四〇口以上出土し、長いものは全長一メートル、短いものは六〇センチメートルあまりである。(注1)

この両古墳は、規模はさほど大きくはないが保存状態がよく、平地に築かれた中期の典形的な方墳として重要な遺跡である。

方墳の発見例は近年まで非常に少なかったが、最近はその発見例も増加してきている。市内では、前述の成山三号墳・大迫古墳・高津町市ノ坪古墳や里町久田山古墳群中に見られ、中丹地区では、福知山市中坂古墳群や、宝蔵山古墳群の中にも見られるのである。

(ハ)円墳

円墳では、昭和四十七年に調査された高谷古墳群中の五、六、七号墳が、その出土品からみて五世紀に築造された古墳と確認されている。

3.丹後の中期古墳

丹後地域の中期古墳は、切山古墳(舞鶴市)・丸山古墳・法王寺古墳(岩滝町)・作山古墳(加悦町)などであるが、前期の大形古墳に比べてその規模は非常に小さくなってくる。

それは、丹後地域が前期古墳の時代に比べて大和政権との連帯がうすれ、その権威を失ったことをしめしており、大和政権がその政治の中心を河内へ移したことにより、大陸文化輸入径路としての重要性が瀬戸内海経由にとってかわられたことが、その最大の原因ではなかろうか。それに反して、中丹地域は中期に入って古墳文化の発展期に入る。それまで由良川のみに頼っていた文化の流れが、加古川をさかのぼり、桂川を遡上して由良川の文化と合流したとき、これまで後進地帯であった中丹地域はにわかに脚光をあび、大和政権の支配力がしだいにのびてきたと思われ、この地域に分布する中期古墳が、それを物語っているのではなかろうか。

第三節:後期古墳―群集墳の時代

1.群集墳の出現

古墳時代後期(六~七世紀中ごろ)になると、中期末ごろより採用されはじめた横穴式石室が各地で広く採用されるようになり、五世紀につづく大古墳とともに、直径一五メートル前後の小古墳が爆発的に数多くつくられるようになってくる。それらは、おおむね群をなしていることが多いので、ふつう群集墳とよばれている。

この群集墳が爆発的に増大した背景には、社会構造に大きな変化がおきたことが考えられる。すなわち古墳の築造が支配階級の独占的なものでなくなり、このころに台頭しつつあった家父長的家族の長(おさ)やその家族、または下級官人などまでが古墳をつくりはじめたことを物語っている。

こうした社会構造の変化に対応して利用されたのが横穴式石室である。横穴式石室は遺体を安置する玄室(げんしつ)と、外部から玄室に通じる羨道(せんどう)からなっており、通常、遺体を葬ったのち羨道の入口(羨門)は閉鎖されるが、必要に応じて羨門の石を取り除くと、いつでもそこへ追葬なり合葬をすることができるものである。

例をあげると、以久田野四九号墳は南向に開口した横穴式石室の小円墳で、羨門は三枚の石で閉されていたが、遺体は石室の中心部でなく隅の方に寄せられていた。また、高谷三号墳では以前に副葬したと見られる古式の須恵器を一方に取り片付けて、その後へ追葬したと認められる埋葬が行われていた。

また注目すべきことは副葬品である。前・中期の大古墳に副葬されている鉄器・武器・農具・工具等の鉄製品はそれを一手に握ることのできた被葬者とその一族が、その権威と財力をほこって副葬したものであった。ところが、群集墳の被葬者のもつ鉄製武器や農耕具・工具は、かつての大豪族の集中所有からはなれて、かなり広い範囲の階層にまで行きわたり普及したことをものがたっている。群集墳の被葬者たちが、鉄製の生産用具を手にして次第に経済的実力を高め、新しい階層として政治的にも成長した事をしめしている。しかしこうした小形古墳に葬られたのはやはり地方の小豪族であり、民衆は弥生時代以来の土壙墓に葬られたものである。

市内に分布する群集墳のうちで、特に大規模なのが以久田野古墳群と、里町にある久田山古墳群である。この二つの古墳群は、前方後円墳と、やや大形の円墳をふくんで、直径一〇メートル前後の小形の円墳が数多くあり、その立地状況によっていくつかの支群に分けられる。また、古墳の規模や配置状況によって、被葬者間の関係や階級の差が考えられるのである。

この両古墳群は、綾部の沖積平野を一望に見おろせる由良川北側の丘陵上にあるのに対して、由良川南側には、五、六世紀の古墳は極めて少ない。両古墳群のおびただしい古墳の集まりの様子は、単に里地域・栗地域だけの墓地として考えるには、経済的基盤からみて無理のように思われる。由良川の南側地域は、弥生時代中期から古墳時代末期におよぶ住居跡が発見されたところで、早くから開かれて集落があったと思われる。この南側地域もふくむ広い範囲に住む集団の墓地として、この両古墳群が形成されたものではなかろうか。

こうした群集墳の築造をうながした社会的背景には、五世紀から六世紀へかけて、大和朝廷の地方支配に関係する部民制の成立が考えられる。こうした社会情勢の変化のあらわれとして、群集墳の成立を解明すべきであろう。その意味で、群集墳の研究は今後の重要な課題である。

2.綾部市内の古墳

古墳時代後期に築造された古墳の数は途方もなく多い。現在綾部市内で発見されている古墳は五〇〇基を越すが、そのほとんどが後期古墳であり、群集墳も数多く見られるのが特徴である。それを旧町村別に集計してみると前ページの表の通りとなる。

これについて概要を述べておこう。

旧以久田村は京都府下でも屈指の群集墳のある地域で、往時は、百数十基あったといわれた以久田野古墳群や、その東につづく上村古墳群、西側平地に三宅古墳群、高谷古墳群などが密集している。

以久田野古墳群は最も大きい古墳群で、おおむね大谷・大野・大師堂前・北西部の四支群にわかれ、別に殿山山頂と沢に陪塚をもった前方後円墳が各一基ある。

以久田野古墳群の規模は、直径三メートル、高さ〇・六メートル程度のものから、直径二八メートル、高さ五メートルぐらいと大小さまざまである。それぞれに特徴のある埋葬形式をもつ古墳群であって、群の築造年代は平野に面した大野の群が最も古く、ついで大谷、大師堂前、北西部の順に築造されたものと考えられる。残念ながら詳しい調査ができないままに開墾されてしまい、現在残っているのは二〇基ほどとなってしまった。しかもそのほとんどが盗掘されてはいるが、貴重な文化財として永久に残したい遺跡である。

上村古墳群は、一尾が城山の南側山麓から大川神社裏山にかけて分布するもので、横穴式石室のある古墳群である。大部分が盗掘されたり、石材が抜きとられたりしているが、出土品からみて六世紀末ごろの古墳群である。

三宅古墳群は、荒神塚を主墳とする円墳群であって、以前は数基あったようであるが、半壊の一基を残して全部破壊された。荒神塚は昭和三十六年、茶園造成のために破壊されたが、そのときの出土品からみると相当有力な被葬者であったらしく、一墳中に二つの粘土榔をもち、その北槨には子持壺・高杯などの土器類と鏡・刀、南槨には鉄器(斧・鋤・鎌・のみ)・短甲・馬具・須恵器類が副葬されており、六世紀前半のものと推定される。この古墳群は、三宅=屯倉(みやけ)という歴史的な地名とかかわり、屯倉の設置やその時期を考える上で重要な遺跡であるといえる。

館町高谷古墳群は、昭和四十七年に綾部市教育委員会によって調査された大形の石室古墳と土壙墓からなる古墳群である。もとは一五基ほど確認されていたが、下方の五基ほどは以前に開墾されており、今回は八基が調査された。特に注目すべき点は、六号墳から綾部市で最も古式の須恵器が発見されたこと、三号墳から本市最初の発見である青銅製の馬鐸三個が出土したこと、封土中に弥生式後期の土器片が含まれていたことであり、館の弥生式遺跡とのかかわりの中で、今後の研究課題を残している。

旧小畑村は市内で最小面積の村であるが、古墳数は非常に多い。このうちの八塚古墳群は約一三基の円墳群であって、石室は有しない。前田古墳群は昭和四十年に調査され、七世紀前半のころのものと推定されている。他に三ノ宮古墳群・野口古墳群および前に述べた成山古墳群などがある。

旧佐賀村現綾部市内には小貝古墳一基しかないが、福知山市に編入された私市の西稲葉に八基の小円墳群がある。また報恩寺の奉安塚は横穴式石室をもった円墳で、昭和二十四年に発掘調査された。金色にかがやく鏡板や、杏葉・雲珠、その他金環・勾玉・鏡・須恵器など当地方では珍らしく豪華で多量の副葬品が出土した。

旧物部村は、古墳群が須波岐・白道路(はそうじ)に集中している。すなわち石塚古墳群・五反田古墳群とその周辺にみられる小古墳群である。石塚古墳群は須波岐物部氏との関係が考えられる古墳群である。なお、石隈にも石室古墳が七、八基存在していたが、いまは大部分が破壊されている。

旧志賀郷村には大きい群集墳はなく、別所・篠田・向田・坊口に二~六基が分布している。向田の稲荷山古墳は全長三四メートルの前方後円墳である。

旧綾部町の古墳は、青野大塚のほかは味方と野田に集中している。味方には紫水が丘古墳をはじめとして味方平・斎神社境内・平林・下の墓地付近に多くの古墳があったことが伝えられており、斎神社境内のものは完存している。野田古墳群はもと一三基あったと伝えられているが、現在では一基が残されているのみである。神宮寺町の加迫神社付近にも石室のあった円墳六基がある。総体的にみて七世紀前後のものと思われる。

旧中筋村では大島・高津方面に多く、大島の古墳群には約二〇基の石室をもつ円墳があった。西岡谷にも三基、安場にも二、三基の古墳がある。

旧吉美村には、久田山古墳群と田坂野古墳群がある。久田山の古墳群は吉美村の古墳数の半数を占めており、ほぼ四支群に分かれている。その支群中には四、五基の方墳群があって、大きさは方約一〇メートル、高さ〇・五メートルくらいで、方墳の群集としては福知山市中坂古墳群に次ぐものである。

田坂野群集墳は小呂町にあって、昭和四十年に調査されたが出土品も貧弱で、七世紀はじめごろのものと推定される。

旧西八田村では、淵垣町八幡神社裏山に六基の円墳があって完存しているほか、安井の杉の本に四基、七百石町に一一基が発見されている。

旧東八田村旧東八田小学校校庭にあった上杉一号墳、高槻町茶臼山古墳は独立した前方後円墳であるが、群集墳は上杉の焼森、石田神社後背部の宮ノ腰丘陵に集中している。

焼森と七百石の群は茶臼山古墳と、宮ノ腰の群は上杉一号墳との関連をもって考えるべき古墳群である。

旧山家村には古墳がきわめて少なく、西原町にある「さるとり古墳」と「札の前古墳」の二基だけであるが、どちらも巨石を用いた横穴式石室の古墳である。

旧口上林村では、河牟奈備神社周辺と堂ノ下、武吉の入口、十倉しこの谷、下島などにあるが、いずれも石室を有する古墳である。

旧中上林村の古墳は、おおむね街道ぞいに散見され、馬場に三、四基、皿田に五、六基がある。

旧奥上林村では、鳥垣の三基と君尾山登り口の一基、有安の一基、草壁の一基が発見されているだけで非常に少ない。

以上、綾部市内の後期古墳を、群集墳も含めて旧村ごとにその大略を述べてきたのであるが、その分布のあり方は、古代集落の成立と発展の時期をしめす重要な考古学的資料である。

以久田野や久田山のような大群集墳とは別に、各地に一〇基前後の古墳群があることをみてきた。それらは神社の周辺にある場合が多く、横穴式石室をもつ小形の円墳かまたは木棺直葬墓であって、その被葬者の階級的な格差もあまりみられない。ただ、古墳の内部構造による格差は、あるいは被葬者の系統のちがいや、財力の差をしめしているのかも知れない。

綾部地域における集落の定着は、古墳の状況から推定すると、およそ五世紀から六世紀のころとみられ、点在する古墳がこのことを如実に物語っている。

三世紀後半から七世紀中ごろにかけて、いろいろ変化しながら築造されてきた古墳が、七世紀末になるとほとんど作られなくなってしまう。その理由は、大化二年の薄葬令によって古墳の築造に大きな制約が加えられ、また、仏教文化の影響をうけた火葬が流行したことや、古墳の造営という莫大な労働力を要する大事業が、寺院建立に肩代りしていったことなどによるものといわれている。

綾部地方の古墳も、こうした時代の流れの中で築造されなくなっていったものと思われる。

(注1)京都府史蹟名勝天然記念物調査報告一~三冊

お問い合わせ

教育委員会教育部社会教育課

京都府綾部市里町久田21-20

電話番号:0773-43-1366(直通)

ファクス:0773-43-2134

Eメール:info@ayabe-museum.org

より良いウェブサイトにするためにみなさまのご意見をお聞かせください

このページは分かりやすかったですか?

このページは見つけやすかったですか?

このページは役に立ちましたか?