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ホーム > 教育・文化・スポーツ > 資料館 > 綾部市史 > 原始古代編(第1章)

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更新日:2019年6月25日

原始古代編(第1章)

縄文・弥生時代―村のはじまり

第一節:原初の石器

旧石器の発見

昭和四十七年夏、綾部市の以久田野で形の変わった一個の石片が発見された。それは、うす青色をした小さなチャート質のもので、よく見ると、自然に割れてできたものではなく、明らかに人間の手によって作られたものであった。その石の細部をみると、一辺には細かな規則的な加工がほどこされ、他の一辺には、鋭利な切り出しナイフのような刃を認めることができた。この小さな石片はただの石片ではなく、石を割ったときにできた鋭い刃を使う石器であると思われた。

その後、この小さな石器は、「ナイフ形石器」と呼ばれる旧石器時代の人々が用いた代表的な石器であることがわかった。それは、綾部市内において初めて発見された旧石器の明確な資料であり、また、京都府北部で発見された最初のナイフ形石器でもあった。

以久田野においてナイフ形石器が発見されるより前に、西原町熊野神社の裏山で一個の円盤状の石器が発見されていた。それは市内の高校生二人が偶然に発見したもので、剥離技法から見て旧石器時代の遺物と考えられた。また同じころ、市内上杉町においても旧石器時代のものと思われる石器が発見されていた。しかしこの二点の石器は、どちらもその不定形の形状や、また単独出土であったことから、旧石器時代のものとすることに少なからぬ疑問があった。それらの石器が発見されたころは、綾部市内でも縄文時代の遺物が発見されはじめ、それまでまったくの空白であった石器時代についてもようやく目を向けようとしている時であった。考古学的には、弥生時代の遺跡が最も古い時期のものと長い間考えられてきただけに、縄文時代の遺物がつぎつぎに発見されたことは、人びとを少なからず驚かせていた。その上、続いて二点の石器を突然に旧石器時代の遺物としたため、疑問の声があがったのも当然のことであったかもしれない。

しかしそれらの疑問も、ナイフ形石器という明確な資料の発見によって解け、旧石器時代から綾部においても人びとが生活していたことが、認められることになったのである。

土器を持たない人びと

それでは、以久田野、あるいは西原・上杉をはじめとして綾部市内の各地に住んでいた旧石器時代の人びとがどのような生活をしていたのであろうか。いまのべたように綾部ではその資料がきわめて少ないので、全国各地の旧石器時代の遺跡を参考にしながら、当時の人びとの生活を想像してみよう。

わが国で、旧石器時代の遺跡が発見され認められたのは、昭和二十四年のことである。それから今日までに、全国で数多くの遺跡が知られるようになり、それらは土器を伴わないところから、先土器時代の遺跡とも呼ばれている。それらの遺跡で発見された石器の量は非常に多く、遺物の出土した地層の重なりのようすや科学的な分析によって、それらの石器が今から何万年くらい前のものかを知ることもできる。また、石器の種類によって、どの時代の人間が使用したものであるかが、おおよそわかるようになった。

以久田野において、ナイフ形石器を使用していたのは今から約一・五~二・五万年前の人びとと考えられるが、その人びとは山野に住む動物を追って生活していたのであろう。一か所に長く定住することはなく、住居は岩かげや、簡単な竪穴住居であったと考えられている。

日本の旧石器時代についての研究はまだはじまったばかりであり、綾部では、その入り口にやっとたどりついたところである。今後さらに多くの遺物が発見され、新しい事実を知ることができるであろう。これからの研究に期待したいところである。

縄文時代の生活

今から約一万年前、地球上の気象に大きな変化が起こっていた。寒冷な氷河の時代が終わり、暖かい後氷期に入ったのである。高山をおおっていた万年雪がとけ、河川の水量が増加したため多量の土砂がおし流され、下流には沖積平野がつくられるようになった。寒さに耐えて生活していた旧石器時代の人びとにとって、温暖な気候とともに住みやすい環境ができてきたのである。活動の場が広がり、食料である動植物が得やすくなった。そしてこのような住みやすい環境が新しい文化を生み出す契機となったのである。それまで石を打ち欠いて道具を作ることしか知らなかった人びとが、石を磨いて丈夫な鋭い刃を持った石器を作ることをおぼえ、新たに土器を作る技術を発見した。地質学的にいう沖積世の時代が、同時に新石器時代である。土器をつくる時代となった背景には、こうした人間の居住に適した環境があったのである。

わが国では、人間が土器を作ることを知ってから、稲作のはじまるまでの時代を「縄文時代」と呼んでいる。縄文時代の人びとは、山野に自生する植物の実や根をとり、また鳥獣や魚貝を捕えて食料としていた。最近の説として、縄文時代の中期あるいは、後・晩期には農耕が行われていたとする考え方も出ているが、それは今日のような水田耕作ではなく、畑作によって雑穀を栽培していたというものである。

縄文時代人の生活について、昭和四十八年に発掘調査された舞鶴市桑飼下遺跡は、多くの資料を提供している。この遺跡は、由良川の自然堤防上に立地しており、炉をもった住居跡や多数の石器・土器などと、食用にしたトチ・カヤ・ドングリなどの木の実の遺体が発見された。住居付近の土の花粉分析によって、当時の植物のようすがわかり、食用にした木の実は、住居から少し離れた山から集めてきていると考えられた。これらの資料から、この地に住んでいた縄文時代人は、植物性の食物を主な食料としたと考えられている。

この時代には、旧石器時代になかった弓矢が発明され、動物を捕えるのにすばらしい威力を発揮したもので、矢の先につけた石鏃が各地で発見されている。また魚をとるのに用いた網のおもりや、魚を突いてとるモリ・ヤスの類も発見されている。このようにして食物を得ていたが、食糧の豊富な所では一か所にとどまり村の形態をととのえていたようである。村と村との交流のあったことも遺跡から出土する遺物によって知ることができる。綾部でも、近辺では産出しない黒曜石やサヌカイトを材料とした石鏃が発見されている。それらがどの地域を経て綾部へもたらされたのかを考えてみるのは、非常に興味深いところである。

綾部の縄文遺跡

丹波山地の谷間を流れる由良川が、綾部盆地へ出ようとして右折する地点の右岸味方町に、笠原神社の小さな森がある。この付近の畑地こそ、綾部で最初に縄文時代の遺物が発見されたところである。そこで三個の石鏃が発見されるまで、綾部において縄文時代の遺物はまったく知られていなかった。この発見をみた昭和四十六年は、綾部の歴史に新しい一ページを書き加える記念すべき年となった。味方町に引き続き、石原町においても石鏃やサヌカイトの破片が発見され、また以久田野においても、動物の皮をはぐのに用いた大型のスクレーパーが発見された。その後も遺物の発見例は増加し、小貝町・青野町・寺町・館町と市内のいたるところに、縄文遺跡のあることがわかってきたのである。

こうした状況の中で、昭和二十四年に、十倉中町張田の道路工事中に発見された石棒が再検討されるようになった。この石棒は、数本がまとまって地下一・二メートル位のところから、獣骨片などとともに出土したといわれるが、惜しいことには一本だけを残して他はすべて埋められた由である。その一本の石棒は、粘板岩を研磨して作られた長さ二〇センチメートルのもので、変った形の石器であることはわかったが、用途や時代については全くわからず、当時の研究状況の中ではそれ以上に追及されなかった。近年になり、綾部市内でも縄文時代の遺物が確認されるにしたがい、その石棒があらためて注目されるようになった。そこで専門家に調査を依頼したところ、形状・出土状況等からみて、縄文時代晩期の石刀であるとされた。石刀は、「むら」の統率者が呪術的に用いたと考えられるものである。この石刀の発見によって、綾部市にも約三〇〇〇年前に「むら」らしい形ができていたことや、「むら」の内部に身分的な差が生まれはじめていたことなどが考えられるようになった。

綾部において、縄文時代の遺物が確認されるより前、京都府北部地方では、すでにいくつもの縄文遺跡が知られていた。丹後半島の海岸沿いの地域には、函石浜をはじめ大規模な縄文遺跡があり、また舞鶴市の由良川下流地域では、川底から多量の縄文土器が発見されていたため、同じ由良川流域である綾部でも縄文遺跡の発見は時間の問題と考えられていたものである。

縄文時代の人びとの生活を知ろうとするとき、人びとが使用した石器は、生産の用具として重要な手がかりであるが、さらに生活用具として土器が大切な要素となってくる。土器はその質や形状により、他地域との交流のようすもわかり、また、いつの時代の遺跡であるかを知ることもできる。ところが綾部市では、いままでに発見された縄文式土器は、青野遺跡より出土した小さな破片ただ一つしかない。だから、まだ綾部の縄文時代に関して多くを語ることはできず、今後の発見に期待するところが大きい。いままでに比較的多くの遺物が出土しているのは石原遺跡である。この遺跡は、一〇〇〇平方メートルほどのせまい山すその台地上にあり、現在までに八点の石鏃と、他に石錘・チャートやサヌカイトの破片など数十点の遺物が採集されている。石鏃の形式もほぼ同一であるところから見て、縄文後期ごろの比較的短い期間に営まれた住居跡ではないかと考えられる。

第二節:郷土の弥生遺跡―館遺跡

紀元前三〇〇年ごろから、紀元二、三〇〇年ごろまでの間を弥生時代と呼んでいる。この時代は、日本に稲作の技術がもたらされ、それが各地へ普及していった時代である。前代の縄文時代が狩猟・漁撈・採集を生活の手段としていたのに対し、弥生時代は稲作のできる低地に住み、稲を作り、それを食料として生活していたのである。弥生時代に稲作が行われたことはさまざまな資料から知ることができる。例えば底部に籾痕のある土器や、炭化米、さらに稲作農耕に用いた木製の農具が発見されることも、水田耕作の行われたことを証明している。

わが国に、このような弥生式文化が伝えられたのは、今からおよそ二二〇〇年前のこととされている。最初の上陸地点は北九州板付付近と考えられており、その後、瀬戸内海沿いに山陽、近畿と伝わり、また山陰海岸沿いの地域を通り近畿地方へも伝えられた。それでは、綾部で稲作がはじまったのはいつごろからであろうか。

綾部で弥生時代の遺跡が最初に発見されたのは、大正七年のことである。館町赤国神社境内の土木工事の際、弥生式土器が発見され、その土器は、いままでに発見されている土器の中では最も完形に近いもので、鉢・高杯・壺などがあり、製作技法や形から、弥生式後期の特徴を備えている。また同じころ、赤国神社拝殿付近やその周辺で、石斧二個と鉄滓が発見された。鉄滓は、鉄器の使用をしめす重要な資料である。

最近になってからも、石斧・石鏃・石錐・砥石などが合わせて十数点発見され、その中には、瀬戸内か出雲地方の産出と思われる黒曜石製の石鏃などもあって、文化交流の一面をしめしている。

これらの石器や土器の出土から考えると、弥生時代の中期ないしそれ以前から、ここに人びとが生活していた可能性が大きい。このことは遺跡の立地を見てもいえそうである。

館遺跡は犀川左岸の台地上に立地する。この台地は以久田野から連なる低い丘陵の端部で、東西・南北ともに三〇〇メートルほどの広さの平坦面をもっている。また、この台地の西部には、犀川の沖積平野が広がり、台地と現在の水田面との差は数メートルである。赤国神社付近の台地上に住居を構え、犀川の氾濫原を水田として、農耕を営んでいた人びとの生活が想像できるのである。時代がさがり古墳時代になっても、この地が背後の山地に点在する以久田野古墳群や、高谷古墳群のような古墳群を生みだす力を養ったことも考えられる。

館遺跡の他にも、弥生時代の遺跡として、岡町・青野町・神宮寺町などの遺跡が知られている。これらの遺跡からは、弥生式土器や石棒・石包丁・叩き石などが出土したことが伝えられているが、そのほとんどが十分な調査をされないまま散逸してしまっていることは残念なことである。

最近明らかになったものに、睦寄町行道前(奥上林小学校敷地内)出土の石槍がある。昭和三十三年ごろ、湿地の排水溝を掘る作業中に発見されたもので、詳しい出土状況はわからない。石槍の長さ二〇・六センチメートル、石質は頁岩と思われる堅いもので、よく研磨されている。弥生時代の前期ないし中期前半のものと思われる。

第三節:青野遺跡

最近綾部市内で発掘され、その重要性を認められた遺跡として青野遺跡がある。

青野遺跡は、市内青野町西吉美前に所在する遺跡であり、大正年間に石包丁などの発見が報じられている。その後、付近の畑地一帯において弥生式土器・土師器・須恵器なども発見され、長期にわたる遺跡であると推定されており、また、遺跡の範囲も、東西四〇〇メートル、南北三〇〇メートルの広い地域におよぶことが確認されていた。昭和四十七年、関西電力株式会社が青野遺跡の西端部の土地に変電所を建設することになり、そのため同地を発掘調査することになった。三か月余りの日数をかけて約三〇〇〇平方メートルの用地内の調査が行われた。この調査によって、綾部市内ではじめて弥生時代の住居跡が発見されるとともに、土壙および溝などの遺構も明らかになった。また、住居跡などの遺構からは多量の遺物が発掘され、調査前の予想をはるかに越える新しい事実が明らかになったのである。

この青野遺跡は、青野の集落と由良川新堤防にはさまれた低地にある。遺物の散布は自然堤防の微高地上に見られ、東西に細長い地域となっている。この自然堤防は、周辺の水田面からの高さが数十センチメートルないし約一メートルと非常に低く、遺跡の立地上特異な位置にあるといえる。現在では由良川の河川改修も進み、洪水の被害も少なくなっているが、自然の流路にまかせていた当時、洪水の猛威をまともに受けたであろうこのような土地になぜ住居を設けたか、考えてみると非常に興味深いところである。

自然堤防上の土地は、当時の人びとの生活上、いまから想像できないような有利な条件があったのであろう。たとえば、日当りがよくて物を乾燥させるのに便利なことは、食物貯蔵のために絶対的な条件であったことも考えられる。また、この地域は土地が肥え、大規模な施設をつくることなく灌漑することができ、水田耕作に適した土地であったといえる。

広大な青野遺跡のうち、昭和四十七年発掘調査された関西電力株式会社青野変電所用地を、青野A遺跡とよぶ。この地域から発見された住居跡は合計一六基であり、それらの形態も方形・円形、掘立柱をもつものなど多様である。また住居跡の規模も、一辺四メートル前後のものから、一辺八メートルに近いものまで大きな差がみられる。これら一六基の住居跡を、出土した土器によって年代別に分けると、大きく三つの時期に分けることができる。まず弥生時代後期に属するもの、つぎに古墳時代前期に属するもの、最後に古墳時代後期に属するものである。弥生時代の後期から古墳時代前期にかけては、土器形式につながりが見られ、連続してこの地に居住していたことがわかる。しかし、その後一時空白の時代があり、古墳時代後期になって再びこの地に住居を営んだと考えられる。また土器の中には弥生時代中期に属するものも見られ、住居跡は発見されなかったが、そのころにも人びとが住んでいたことがわかる。

住居跡の他に溝・土壙も見つかった。溝は、発掘地域の北端を東西に走る幅約二メートル、深さ約一・八メートルの半円形に掘られたものが最も大きく、この溝に流れ込むように、小さな溝が何本か住居跡内を走っていた。これらの溝がいつのころに掘られたものか、まだ明らかにはなっていない。溝の中から発見される遺物から考えると、古墳時代の後期の住居跡に伴うものか、それ以後の時代に掘られた可能性が強い。また、土壙も発掘区域内の各地から発見された。これには二つの形態があり、一つは細長い溝状のもの、他は楕円形か多角形に掘ったものである。いずれの土壙からも比較的古い形式の土器片が発見され、内部には一、二個の石が置かれていた。これらの土壙は当時の人びとの墓と考えられる。

次に青野A遺跡から出土した遺物について簡単にふれておこう。

土器は発掘区域のいたる所から発見された。古い形式のものは弥生時代中期へさかのぼり、新しいものは古墳時代後期から飛鳥時代の須恵器もあった。石器の出土量も多く、合計約七〇点にのぼっている。石鏃が多く、次いで石鑿・砥石、その他に磨製石剣の破片・叩き石・石斧・環状石斧・石錘なども見られた。砥石が数多く発見されたことから考えて、鉄器の使用が考えられる。しかし、鉄器の発見数は少なく、一三号住居跡からわずかに三点ほど発見されただけである。腐食したものか、あるいは貴重品として他の住居へ運び去ったものと考えられる。石器と鉄器の使用がほば同時に行われていたと考えられ、弥生時代中期には石器をほぼ使用しなくなる先進地域にくらべ、綾部地方の後進性を物語るものかも知れない。

以上述べてきたように、青野A遺跡では多くの資料が発掘された。特に弥生時代から古墳時代にかけてつくられた住居跡が多数発見され、それに伴い多数の土器片が出土し、弥生時代から古墳時代の変遷過程を知る上で重要な資料となった。

なお、青野A遺跡の東方において石包丁が一個発見されている。石包丁は稲の穂先を刈りとるための道具であって、ここに住んでいた人びとの使っていたものである。

お問い合わせ

教育委員会教育部社会教育課

京都府綾部市里町久田21-20

電話番号:0773-43-1366(直通)

ファクス:0773-43-2134

Eメール:info@ayabe-museum.org

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