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更新日:2019年6月25日

地理編(第2章)

自然環境としての地域の性質

一:山地の性質

綾部市域に群がる山々の主なものの高度をあげると次のとおりである。(単位メートル)

  • 頭巾山:八七一・〇
  • 中津灰山:七四九・一
  • 奥山:五八八・八
  • 三郡山:四九八・〇
  • 四ツ尾山:二八七・五
  • 君尾山:五八一・七
  • 錫杖山:二七〇・五
  • 三国山:六一六・六
  • 養老山:六六五・四
  • 蓮ケ峯:五九六・一
  • 高浪山:二九五・八
  • 空山:三五一・九
  • 弥仙山:六七四・〇
  • 岩王寺山:三〇〇・三
  • 金峯山:三三四・一

これらの山々の相隣り合う山頂の高度は、互いによく揃っており、山項を連ねると一つの平面のようになる。山頂のこのような状態を定高性という。丹波山地が丹波高原と呼ばれる理由の一つにこれがあげられよう。しかし、この山頂の定高性は水平な平面ではなく、傾いていたり曲面になっていたりして、歪んでいる。

綾部市域の東部の山地の高度は八〇〇~六〇〇メートルで、西部の山地は四〇〇~三〇〇メートルである。東部から西へ低くなって、東高西低型の傾斜を示している。その中央部は一段と低くなって、丘陵が群がっている。他方、東部山地について、南北断面をみると、北部の高度は四〇〇メートルで、南部は六〇〇メートルである。すなわち、南高北低型の傾斜をしめしている。

このような山頂の定高性は、過去の地質時代に山地が平らにされて、その名残りが山頂に残っているという解釈がなされている。すなわち、中生代の末期(約一億年前)から第三紀(約一千万年前から七、八千万年前にかけての頃)に、それ以前に険しい山地であったところが、風化や河川の浸食によって、平らな低い地形にならされて(平坦化作用)、平原に近い準平原があらわれたというのである。岡山県や広島県の中国山地が平らになったのもこの時期である。

しかしその後、第三紀末から第四紀(数百万年前から現在まで)になって地盤が不安定になり、はげしい地盤運動がくり返された。そのために準平原は再び隆起した。地盤がふくらみ曲がるような形式の隆起(撓曲運動)や、地盤がちぎれるような形式の運動(断層運動・地塊運動)がみられた。このような運動によって隆起した地盤に、河流が浸食する力を再び増し(回春)、谷を深く刻み込んでいく。その結果、険しい谷壁にはさまれた谷底を河流が急流をなして流れ下る景観となる。このようなはげしい浸食のようすは、生物の生命の一生にたとえると、壮年期のようすに相当するであろう。

他方、数百メートル隆起した準平原は、谷によって破壊されて、山々が群がる地形となった。山の群の中には一きわ高く突き出ている山もある。高度六〇〇メートルの山の稜線の上に、八〇〇メートルの山が突き出ているのがそれである。これは、準平原が形成された当時、そこの岩石が堅かったりして侵食し残された山(残丘)であると解釈されている。また隆起準平原は先にのべた地盤運動の影響を受けて地形面が歪んでいて、傾いているところがみられる(傾動地塊)。高い部分の高度八〇〇メートルと、低い部分の高度六〇〇メートルの間の高度差もその影響を受けているのであろう。

この山地の中に谷が発達して、現在の由良川水系ができ上っている。その谷と谷の間にはさまれた土地の尾根筋をみると、雑然としているようであるけれども、尾根筋の方向が互いに類以している。それをいくつかの卓越方向に分けることができる。卓越方向は、東西・南北・北東-南西・北西-南東と四方向に大別できる。とくに北東-南西の方向がいちじるしい。その主なものをあげると次のようである。

若狭小浜の飯盛山脈・三国山・蓮ケ峯・高浪・知坂山脈を連ねる尾根筋は、北東-南西方向をしめし、綾部市域の脊梁山脈をなしている。この尾根筋の北側では、東西方向が卓越している。白道路の谷・西坂の谷・小畑の谷・向田と篠田をつらねる谷・西方と内久井を連ねる谷などの帯状の低地がそれである。尾根筋の南側では、南北方向が卓越している。吉美の盆地・下八田の盆地などがそれである。頭巾山を中心として、上林川の谷と由良川本流の谷との間を分水する尾根節も北東-南西方向をしめし、この尾根筋の南西への延長は、三郡山・高岳を経て、長田野台地のそばまで続いている。上林川の北側の君尾山の尾根筋、弥仙山から赤目坂につらなる尾根筋、八代より古路につらなる尾根筋も北東-南西方向をしめしている。

これらの尾根筋の方向の規則性について、いろいろの発達機構の模型が考えられている。一つの考え方として、このような東西・南北、それに斜交する尾根筋や谷筋の配列を地質構造線の配列と考え、その構造線は若狭湾を中心として放射状と同心円状に配列していると想定された。最近では、東西・南北、それに斜交する配列がそのまま、近畿中部や丹波山地に加えられた力による地殻の運動に対応していると考えられている。すなわち東西から力が加わって、東西に圧縮されてこのような構造線が発達したというのである。

二:谷の性質

丹波山地の中に、由良川などが深い谷を刻み込んでいる。山地は大きく切り開かれ、その底を現在の河流が流れている。その谷の深さは谷の両側の尾根から測ると、三〇〇メートルないし六〇〇メートルに達する。その谷の下方に、谷底から五〇メートルくらいの高さまで、谷の両側に階段をなした地形がみられる。これを河岸段丘と呼んでいる。そこには水田がひらけ集落が群がっている。谷全体が形成されるのに要した時間は、隆起準平原が破壊されはじめてから現在までの歴史であるから、恐らく数百万年を経過したと思われる。それに対して河岸段丘は、第四紀の中でも後半になって、大体二〇万年ないし三〇万年の間であろう。この頃、地球上の気候変化がはげしくなって、非常に寒冷な氷河期やその間にはさまれた暖かい間氷期がくり返し出現した。そのために海水の絶対量が増減して、海面の昇降変化が起こった。他方、地盤運動による隆起・沈降も進行して、両者の組み合わせの歴史が段丘地形を形成したのである。このような河岸段丘は、地球を見渡すと、とくに温帯の各地に多く指摘されている。海岸にもよく見られ、それを海岸段丘とよんでいる。

河岸段丘はこまかくみると、何段にもわかれているけれども、まとめて上位段丘・中位段丘・下位段丘に三大別されている。上位段丘は一番古くできた段丘で、十万年から二十万年前にできた段丘である。

中位段丘は、五万年から十万年ほど前にできた段丘である。下位段丘は二万年から三万年前にできた段丘である。しかしこの時代はおおざっぱな目安であって、厳密にはかなり早い遅いの時間の幅があるようである。

段丘は、広い平らな段丘面とそれを囲む急斜した段丘崖とからできていて、段丘面は過去にそこを河流が流れた旧河床面である。そこは、地表面に旧河川の氾濫原に堆積した土砂(段丘層・段丘砂礫層などとよんでいる)があり、その下は山地を構成している岩盤からできている。段丘崖は旧河床である段丘面が谷の浸食により掘り下げられた時にできた崖である。

以下、各河川毎に河岸段丘の特色を記しておこう。

1.由良川の峡谷内の河岸段丘

由良川の峡谷内の河岸段丘を山家付近でみてみると、五段くらいにわかれているが、段丘の発達の状態から、上位・中位・下位の三段にわける。上位面は、戸奈瀬・釜輪・東山・下原で標高一三〇メートルくらいのところにみられる。戸奈瀬・東山では、上位面より高い段丘面が標高一五〇メートルくらいのところにみられる。これを最上位面と名づけている。上位面や最上位面は段丘砂礫層よりなるが、砂礫層の中の礫(石ころ)は岩質が砂岩や頁(けつ)岩であるのが特色的である。礫は川で流されていく途中に角(かど)が少しすりへらされて、亜角礫となっている。このような特色を持った礫は由良川本流に注ぐ支流によって、近くから運びこまれたものと推定される。しかし段丘砂礫層の大部分は、由良川本流によって遠く上流から運ばれてきた性質を持っている。段丘砂礫層の厚さは五メートルないし一〇メートルくらいで、その厚さは、浸食によって掘り下げられていく過程にある河床の砂礫層の平均的な厚さを示している。その礫の粒径が、由良川の現河床にみられる礫にくらべるとそれほど大きくないのは、このあたりで河流の流速が、当時現河床よりもゆるやかであったためと思われる。最上位面の段丘砂礫層の中には粘土層がはさまれていて、河流がよどんでいたことが考えられる。由良川の現河床の縦断面勾配をみると、戸奈瀬・釜輪あたりで、由良川の上流や下流にくらべて急勾配になっている。このような状態の地点を河床縦断面曲線の遷急点とよんでいる。このような遷急点の形成は、そこにかたい岩石がある場所とか、河床の縦断面勾配が増傾斜するように、上流の山地側が隆起すると、谷を下方へ掘り下げるはたらきが下流から上流へおよんでいき(谷頭浸食とよんでいる)、遷急点ができるとかいろいろのでき方がある。戸奈瀬・釜輪の遷急点は段丘砂礫層の性質を考え合わせると、上流の山地側が隆起し、下流の綾部の盆地を含む地域が沈降するような増傾斜運動に対応して生じた地形ではないかと思われる。

中位段丘は、標高一一〇メートル~九〇メートルの段丘であるが、下流では西原の標高七〇メートル~六〇メートルの段丘、野田の標高五五メートルの段丘などがみられる。段丘は、上流の戸奈瀬から下流に向かって次第に低くなっている。中位段丘の特色をみると、段丘面の幅が狭く、段丘面の縦断面勾配が上流から下流に向けて急勾配になり、段丘砂礫層の厚さがうすくなっている。

2.福知山盆地内の河岸段丘

由良川は綾部市街付近から、福知山盆地の中に入ると、広い盆地の中で段丘面も広くひろがるようになる。味方平(標高一〇〇メートル)・以久田野(標高七五メートル)・安場・私市・私市東の段丘などは、いずれも、由良川の峡谷内の中位段丘面を由良川が流れていた時に同時にできた段丘面である。盆地内では段丘面が広くなるとともに段丘砂礫層の厚さを増し、二五メートルくらいに達する。段丘面と現河床との比高は四五メートルくらいで、この比高は段丘面形成後、現河床まで、地盤の隆起や海面の低下などが原因となって、由良川により掘り下げられたものである。これらの段丘面のうち、以久田野の段丘面はもとの平らな地形(推積面)が鮮やかである。その理由は、周囲を山地で囲まれていないので、山地斜面を刻む谷が、段丘面の上を流れることがないために、谷による破壊から残されて、平らな状態が保たれたと考えられる。3.下高津村の天田郡編入

元禄十三年(一七〇〇)丹波絵図が修正されたとき、下高津村の観音寺・興の両村が天田郡へ編入された。

3.上林川の河岸段丘

上林川と由良川の合流点から、一五キロメートルくらい上流にある鳥垣のあたりから下流にかけて、段丘地形がみられる。現河床をみると、佃付近で峡谷となっていて、峡谷内で河床縦断面勾配が急になって遷急点をなしている。段丘砂礫層の厚さは、上流に比べてこのあたりで厚くなっている。段丘面と現河床との比高は、上流の日置谷で二〇メートルくらいである。段丘地形の平面形をみると、畑口川と上林川との合流点である遊里・大町から、下流の大末・十根・裏番まで、直線をなした輪郭の帯状の分布をしめしている。その段丘面は由良川本流と同様に、上位段丘面・中位段丘面・下位段丘面に分けられる。段丘面の高度は、標高二六〇~一五〇メートルから、標高一三〇~一一〇メートルの間にある。段丘砂礫層の厚さは一五~五メートルくらいである。なお、裏番には旧上林川の河床礫と思われるものをのせている地形面がみられる。

4.八田川の河岸段丘

八田川沿いの下八田・梅迫・大日などに段丘面がみられる。その段丘砂礫層の厚さは二五メートルくらいである。礫の岩質はチャート・砂岩・斑糲(はんれい)岩で、少し角のとれた亜角礫である。段丘礫層の中に砂層や粘土層のような粒のこまかい地層をはさんでいる。これら段丘砂礫層の地層のようすは、段丘砂礫層が由良川本流によって運ばれてきたものではなくて、八田川や八田川に注ぐ支流によって、近くから運び込まれた土砂よりなることをしめしている。このような段丘砂礫層を、由良川本流による段丘砂礫層と区別して、支流段丘砂礫層とよんでいる。

5.犀川の河岸段丘

犀川沿いの館・物部などにも河岸段丘面がみられる。標高は六〇メートルくらいであって、由良川本流の中位段丘に連続すると考えられる。段丘砂礫層の厚さがうすく、浸食が強く働いてできた浸食段丘と考えられている。

物部町の旭が丘果樹園のところで段丘砂礫層の垂直断面をみると次のようである。地表面下、僅かなところに厚さ一メートルあまりの火山灰層があり、さらにその下方に粘土層がみられる。その粘土層の中に、植物の遺体が発見されている。植物遺体の種類は、エゴノキ・ハシノキ・ブナ・コナラ・クルミなどを含んでいる。館町の東の、かって泥炭を採掘していた炭坑の付近でも、植物遺体が見出されている。それは主として水生植物の、ハス・マツモ・ミクリ・ミツガシワ・アシ・ヒルムシロ・スゲなどである。

6.その他の支流の河岸段丘

犀川の支流の西坂川・西方川・向田川・内久井川沿いにも段丘地形がみられる。また、八田川の支流の小呂川沿いにも、吉美盆地を中心に標高七〇メートルから一〇メートルまでの間に五段の段丘が分けられる。なお、田坂にみられる段丘面には黒ボクがおおっているのが特色的である。

段丘形成時代の一時期には由良川の流路が変化した。上位段丘の時代に、上流の胡麻付近で、桂川に注いでいた高屋川が由良川に注ぐようになったとか、桂川が胡麻を通って由良川に注いでいたとかが議論されている。また、中位段丘の時代には由良川が竹田川の谷を通って加古川に注いだ事が考えられている。

三:水系と河床の性質

綾部市域で名前がついている河川の数は、五〇あまりをあげることができるであろう。そのうちの主なものは由良川と伊佐津川である。いくつかの河川の性質を説明すると次のようである。

1.由良川

近畿地方北部の代表的な河川の一つで、流路の長さは一四六キロメートル、流域の面績一八八〇平方キロメートル、河川の源流は丹波山地の三国岳に発し、河道は丹波山地の中を、深くて狭い、

曲りくねった穿入蛇行をなして西流する。戸奈瀕・下替地あたりから広瀬までの間で、流路は不規則に北へ曲がり、そこに河床の縦断面勾配の遷急点をつくっている。その下流は再び西流して盆地に入る。盆地の中で、八田川・安場川・犀川・荒倉川を合流しながら蛇行している。

綾部市は福知山盆地の東部を占めているが、福知山盆地といわれる盆地の範囲の限り方はあいまいで、大きく、八田川・犀川・相長川・和久川・土師川・竹田川に沿う谷や、起伏の低い地域をすべて含めて福知山盆地と呼んでもよいであろうし、由良川・和久川・土師川・竹田川などの大きな谷沿いの、広く開けた沖積平野の地域のみを指している場合もあるであろう。また綾部から福知山に至る由良川本流沿いの開けた広い谷や、それにつながる支流の谷の開けた部分について、石原付近を境いにして、東西に二分して東半分を綾部盆地と呼ぶのも一つの分け方であろう。

綾部盆地の中心は、由良川本流に沿う河谷平野であって、東西方向に直線状にのびている。それは地盤に構造線があって、それに制約されたものであろう。本流が東西方向であるから、本流に注ぐ支流は南北方向をとっているものが多い。盆地は、由良川本流や支流が洪水時にまき散らした土砂でおおわれた沖積層よりなっている。沖積層を除去すると、下方に基盤岩石よりなる地形があらわれるが、基盤岩石の岩質は古生層で、多分、盆地の南の縁に断層線があって、その南側の山地(丹波山地)が隆起し、北側の盆地を含む一帯が断層線沿いの断層運動によって沈降して、南へ向かって傾き下っていると推定されている(傾動地塊・断層角盆地ともいう)。このように地盤運動によってできた地形を構造地形といい、地盤運動の形式やその運動の時間的経過によって、構造地形の特色がつくられる。段丘地形の形成の歴史を研究すると、綾部盆地は南側が隆起して北側が沈降したり、北側が隆起して南側が沈降したりする過程を繰り返して、今日の姿になったことが明らかになりつつある。その間に、谷を刻みこんだり、広い湖水を堪える状態になったりすることを繰り返してきたのである。

2.伊佐津川

弥仙山・蓮ケ峯を結ぶ尾根に源を発し、見内川を合わせて流れる伊佐津川は、以前は八田川につながって由良川に注いでいたと思われる。舞鶴湾に注ぐ伊佐津川は黒谷の峡谷を深く刻みこんで、やがて八田川の上流にあたる於与岐の谷の流域を奪って、伊佐津川の流域にとり込んでしまった(伊佐津川による八田川への河川争奪)。そのために八田川の上流流域が奪われて(旧八田川の載頭河流)、伊佐津川と八田川は、野瀬付近の段丘面の上で分水界をつくっている(伊佐津川と八田川の谷中分水)。伊佐津川が黒谷で深い峡谷をなしているのは、付近の山地が降起していくのに対して、伊佐津川が谷底を下刻する力が隆起量に打ち勝ったためである。その結果、伊佐津川が山脈を横切るような形になったのであろう(先行性河流)。

3.上林川

三国山・頭巾山などの山塊に源を発し、流れ下る途中に、古和木川・草壁川・畑口川などの支流を合わせ、北東から南西に向かう。この方向は、この付近の地質を構成する地層の方向である。この付近は、南側に古い古生層よりなる丹波帯と、北側に古生層・中生代層よりなる舞鶴地帯があって、舞鶴地帯の地層の配列する一般方向は北東から南西へ向かっている。上林川は、この方向に沿って約二七キロメートルにわたって流れる。下流の佃・山家のあたりでは、谷が狭くなり峡谷をなしている。それより上流では、河床勾配がゆるやかで、清流が流れ、両岸の堤防は河川工事によって近代化されている。上流は標高八〇〇メートルないし六〇〇メートルの古屋山塊とよばれる山地の中を流れる。ここは山地が高い上に、山地の構成岩石が破砕されてもろいので、河流によってはげしい下刻を受け、両岸の谷壁はV字型の急斜面をなし、一部の谷底ではほとんど平地がみられない(欠床谷という)。なお、天狗畑山の麓には綾部市で唯一の滝がかかっている。

4.八田川

梅迫・里町・上位田を経て南西流する。途中に、島間・淵垣・安井などの地名がみられ、いずれも八田川のようすに関連する地名であると思われる。八田川は、第四紀のやわらかい砂礫層よりなる台地や段丘を刻む谷の水を合わせているから、少し雨が降っても、たちまち砂礫層を浸食して運搬するので、川の水の色が黄濁する。

5.野田川

田野の段丘を刻みこんだ急流である。

6.安場川

谷の中に押し出された扇状地の、まわりより高くなったところを流れる。五月ごろ、田植水を必要とする時期には、灌漑のために取水されて水なし川の状態になる。

7.荒倉川

まわりの山地の構成岩石が破砕されて、もろくなっているので、その中に深い谷を刻みこみ、押し出した土砂で扇状地をつくり、その中をゆるやかに流れている。その扇状地の上流(扇頂とよんだり、谷口とよんだりする)に住居が群がっている。そこは昔から水が得やすく、かつ水害から安全な土地であったのであろう。

8.犀川

内久井・登尾に源を発し、東西にのびる山地を北から南へ横切って流れる。東西方向の谷の中において、谷と流路の位置の関係をみると、川は谷の南寄りの山麓沿いに流れているところが多い。谷の北寄りの山麓沿いには、道路が通り住居がみられる。このように川が谷底の一方に片寄って流れるのは、北方が隆起し、南方が沈降するような地盤の傾斜運動の影響を受けてできた結果と思われる。犀川は流れる水量が少ないので、流域の水田は、溜池を設けて用水の不足を補ってきた。

これらの河川は、由良川上流に大野ダムや和知ダムが建設されたように、土木工事が進むと、水の流出や河床の砂礫などが昔とは変わることが考えられる。

四:地盤の地質構造

1.地盤歴史

綾部市域がのっている地盤が経てきた歴史は、地層が生成してから二億年以上におよぶ。その間に、綾部市を含む地域が、海底にあって地層の堆積を受けた後、断層線に沿って地層がちぎれ、はげしい地盤の変位をくり返す歴史を経過してきた。その歴史の最後のページにおいて、現在の山ができ、谷が刻まれたもので、山の歴史は数百万年から二、三千万年、谷の歴史は数万年から数百万年、段丘の歴史は一、二万年から二、三十万年である。現在進行しつつある山がこわされ、谷が刻まれる過程が地震や大雨の時の山くずれ・地すべり・河床の変化などである。それがわれわれの日常の生活や生産に対して、大部分は災害という形で襲いかかってくる。それが特に時期的に集中するのが、梅雨季や台風季における集中豪雨のときである。その場合、地盤を構成している岩石の岩質、岩石の配列などの地質構造、その破壊されている状態などが条件としてかかわり、その災害のはげしさや規模を定め、さらには、その土地の地形・土の状態・水のあり方などをきめる。

2.古生層

綾部市域のもっとも古い基盤は古生層である。古生層は、二、三億年前、古生代の石炭紀から二畳紀とよばれていた時代に、大陸のふちの海底となった(地向斜とよばれる状態である)時、その海に陸から運びこまれた土砂が堆積して、生成した地層である。それを秩父古生層とよび、丹波山地にみられる地層をその地層の特色から丹波地帯古生層とよんでいる。丹波地帯古生層は化石が乏しい地層であるが、綾部市域で一、二見出されている。

綾部市域の丹波地帯古生層の化石の産地をあげると、洞・新道・高槻・物部・別所などで、フズリナ・蘚虫類・珊瑚類・二枚貝などを産出している。フズリナは、古生層の時代をきめる示準化石として用いられている。

3.舞鶴地帯の岩石

丹波地帯古生層が琵琶湖の西方から福知山のあたりにかけて広くひろがるのに対して、その北西のふちに、舞鶴地帯が北西の舞鶴付近から福知山北方、兵庫県南部を経て、岡山県南部へと南西方向にのびている。その長さは一五〇キロメートル、幅は一〇~二〇キロメートルで、綾部市域は、舞鶴地帯の北東端に近い位置を占めている。この地帯は古生代二畳紀以来の構造運動によってできた構造帯であって、古生代および中生代の岩石からなっている。この地帯は三本の帯に細分することができる。

それを南側から、夜久野南帯・中央帯・夜久野北帯と名づける。綾部市域は夜久野南帯と中央帯にひろがっている。これらを構成する岩石は、舞鶴層群・大浦層などの二畳系、志高層群・難波江層群などの三畳系、夜久野迸入岩あるいは夜久野塩基性岩群などである。

三つの帯についてもう少しくわしくのべると、次のようである。

夜久野南帯は夜久野第一岩群と市野瀬層群に二分される。夜久野第一岩群は粗粒角閃岩(片麻状変成斑糲岩)および角閃岩類を主とする変成岩(舞鶴変成岩)と、トロニエム岩・花崗閃緑岩・塊状変成斑糲岩などで構成される岩群よりなる。市野瀬層群は、輝緑凝灰岩および輝緑岩を主として、(これを夜久野第二岩群とよぶ)泥岩層を挟んでいる。夜久野南帯の南側には丹波地帯古生層がみられ、千枚岩化している。丹波地帯古生層は、千枚岩化していない狭義の丹波地帯古生層と、千枚岩化している大飯層・加斗層に三分されている。夜久野南帯の北側と、中央帯の舞鶴層群との間に細長く分布する三畳系の地層がある。これを荒倉層および難波江層群という。

中央帯には舞鶴層群が分布する。

夜久野北帯は古期花崗岩よりなり、舞鶴花崗岩と名づけられている。夜久野北帯の北側には大浦層群が分布する。舞鶴層群と大浦層群はともに二畳紀の地層であって、夜久野地帯をはさんで、南側と北側の両側に分布しているわけである。

舞鶴地帯の地史を編むと、二畳紀末期に古期花崗岩が迸入して、褶曲運動や断層運動などがあったが、それらの運動はまだゆるやかなものであった。三畳紀に入ると、舞鶴地帯のあたりは陸化していたが、舞鶴地帯が帯状に延びた湾入性の海洋となった。三畳紀後期あるいはそれ以後になると激しい造構運動があって、三畳紀の古地理にみられた海陸の境が構造線となって、構造帯が形成された。この構造運動によって、南帯の夜久野岩類の帯状分布がきまった。この造構運動によって蛇蚊岩および斑糲岩などの超塩基性ないし塩基性岩類が迸入した。これを夜久野第四岩群とよんでいる。それは後期三畳紀あるいはそれ以後のでき事である。なお舞鶴の青葉山噴出岩類をともなう火山活動は、はるか後の新第三紀末から第四紀にかけてのことである。

なお、文中にあらわれた地層名のうち丹波地帯古生層・舞鶴変成岩・加斗層・大飯層・舞鶴層群・大浦層群・荒倉層・難波江層群の性質について補っておくと次のようである。

丹波地帯古生層

狭い意味の丹波地帯の古生層は、丹波山地の地形をともなって広く分布している。岩質は粘板岩を主とし、輝緑凝灰岩・チャート・砂岩・石灰岩・などがみられる。粘板岩は暗灰色ないし黒色を呈している。石灰岩は釜輪の奥山などに露出し、そこでは岩肌が裸出している。

舞鶴変成岩

大まかに、黒雲母片岩ないし黒雲母片麻岩およびそれに伴なう角閃岩・細粒角閃岩あるいは角閃石片岩・ないし粗粒角閃岩・塊状変成斑糲岩・トロニエム岩質あるいは花崗閃緑岩(ないし石英閃緑岩)および石英曹長斑岩質などの酸性岩などにわけられている。これらは上林川の北方と北の於与岐の間を北東から南西へ帯状に分布している。黒雲母片岩・黒雲母片麻岩が菅坂峠の東部、水梨の北の沢、於与岐の上流、小畑に小さく分布しているのが見られる。また、角閃石の白黒の縞目をもつものが睦志にみられる。角閃石が変質して緑色ないし青色を持ったものが星原にみられる。また、塊状変成斑糲岩が次にあげるような場所にみられる。すなわち、伊佐津川の金又・見内、八田川の上杉・梅迫・下八田・上八田・白道路・小呂である。また、トロニエム岩が野瀬付近にみられる。これらの岩石のうち、斑糲岩の岩石学的な性質について補足しておくと、この地域では、幅が約五キロメートルの岩漿が冷却していく過程で異剥岩・斑糲岩・斑糲岩的閃緑岩に分化していく。斑糲岩は、花崗岩質の石理を有し、暗緑色の異剥岩を含むことがその特色である。斑糲岩は梅迫・有岡・栗などに露出している。多田・高倉に露出する斑糲岩は異剥岩が蛇紋岩化して、緑色の特有の脂肪感を呈している。閃緑岩は、高槻・大日・小呂にみられる。小呂付近のものは、石英閃緑岩とよぶものである。

加斗層

上林川に沿って細長く分布している。岩質は千枚岩状粘板岩と、片状砂岩との互層である。粘板岩は暗灰色ないし黒色のものが多く、よく成層していて打つとうすくはがれる。砂岩は緑灰色を帯び、かたくてちみつである。

大飯層

上林川の北東の君尾山付近に、北東-南西方向に帯状に分布している。岩質は主として千枚岩質粘板岩よりなり、レンズ状にチャート・砂岩などを狭んでいる。粘板岩は暗灰色、チャートは灰白色ないし帯緑灰白色ないし帯緑灰色を呈する

舞鶴層群

於与岐・物部の北方を北東から南西へ帯状に分布し、頁岩質泥岩を主とし、砂岩・礫岩がしばしば含まれる。石灰岩・輝緑凝灰岩がまれにレンズ状にはさまれている。

大浦層

志賀郷・金河内の山地の尾根のあたりをかすめて分布している。岩質は頁岩・輝緑凝灰岩よりなる。頁岩は暗灰色ないし帯緑暗灰色で、やややわらかく、砕けやすく、風化すると褐灰色の土壌となる。輝緑凝灰岩は濃緑色を呈し、かたくてちみつである。

荒倉層

荒倉付近・鹿原南東方・吉坂峠付近にわずかに露出している。主として頁岩からなり、細粒砂岩の薄層を挟む頁岩は、帯緑暗灰色ないし黒色で層理は明瞭である。

難波江層群

難波江層群の分布は、福井県大飯郡難波江から於与岐・上八田・新庄に幅の狭い帯状にのびている。岩質は頁岩層と砂岩層がならんで分布している。この地層から岩王寺石が採取されている。見内や高槻では、石炭層が挟まれている。

4.新生代層

丹波地帯古生層や舞鶴地帯の岩石が基盤を構成していて、その上にうすく新生代層がおおっている。新生代層は、基盤岩石の山地の中に刻みこまれた谷の底を埋めている。綾部市域の新生代層は第四紀層の更新統と完新統である。

更新統は未凝固のやわらかい地層で、粘土・砂・礫よりなっている。その地表面は段丘や台地の地形を呈している。

完新統は現在移動しつつある土砂を含めて、過去数千年ないし一万年の間に堆積した新しい土砂の層である。すべて現在の河川沿いの谷底や盆地を埋め、沖積平野を形成している。

基盤岩よりなる山地や新生代層よりなる段丘や台地の地表面は、大気の影響を受けて表面から風化して、風化土層や崖催層などでおおわれている。それにバクテリアのはたらきなどにより土壌化が進んでいる。さらに水田では耕作により水田土壌の特色を増し、また切り取りや盛り土のような人工による改変が進んでいる。

お問い合わせ

教育委員会教育部社会教育課

京都府綾部市里町久田21-20

電話番号:0773-43-1366(直通)

ファクス:0773-43-2134

Eメール:info@ayabe-museum.org

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